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性同一性障害で「不当な処遇」―経産省職員が提訴

2015 - 11/13 [Fri] - 16:36

先日も書いた事件の続きですね。性同一性障害に悩む男性が、自分の職場の女子トイレを使えないことは不当な処遇であるとして、経産省を訴えたのだとか。


もちろん、自分は女性であると思って悩んでおられるご本人にすれば耐え難い精神的苦痛を味わって日々仕事をしているのでしょう。何しろ職場である経産省に対して1655万円もの損害賠償を求めているくらいですからね。

でも、ごめんなさい、正直な気持ちを書くことをお許しいただけるのであれば、「まったく理解できません」というのが私の偽らざる気持ちです。「ちょっと待てよ!」と言いたくなるところなんです、ええ。

うーん、そもそも論として、職場ってそこで働いている人の要望を100%満足させなければならない場所なのでしょうか?職場が自分の資質や性格に合わない場合、普通はその合わない従業員が辞めるのが普通じゃないでしょうか?差別的な表現で申し訳ないですけれども、ノーマルな性感覚を持つ人から見ればその方の性のあり方自体が普通ではないので、そのあたりの職場に対する感覚も異なっているのでしょうか?

人って、そんなに職場や周囲の人に波風を立てて争ってまで自分の権利や主張を通すべきなのでしょうか?職場が自分のいうことを聞いてくれなかったからといって、1650万円の損害賠償を求められるものなのでしょうか?だったら自分が思い通りに昇進できず、同期と比べても昇進が遅いことは差別的で不当な処遇だ、と喚き散らして会社に対して損害賠償訴訟を起こしても許される、ってことなんでしょうか?

いや、今一度問いますけれども、人ひとりの権利って、そんなに周りに迷惑や軋轢を起こしてまで押し通す必要があるものなのでしょうか?そこがそもそも私には理解できないんです。なぜこの性同一性障害の方は、ご自分と同じような障害を持った人ばかりが集まっていて、ご自身にとって理解を得られて居心地の良いであろう職場に転職するという選択をなさらなかったのでしょうか?

先ほども書きましたけれども、職場と自分の水が合わないと感じれば、普通自分がその職場を辞めるでしょう?違うのかなぁ、私のこの感覚って。だって性同一障害の方が望む職場の在り方と、その他大勢の方が務めている職場の在り方が違ったものであり、その他大勢の方が性同一性障害の方が望む職場の在り方に変えることに同意できないのであれば、そりゃ、性同一性障害の方がやむなく職場を去るという選択になるんじゃないでしょうか?違うかなぁ?

わからない、わからないわ、この方の感覚や考え方が。いや、もう一回差別的な表現になるかもしれませんけれども、性同一性障害の方って、いわゆる普通の社会においては「異端者」じゃないですかぁ。事実、異端者だからこそ、こうやってトイレの使用一つをとってみても職場と揉めるわけですからね。

で、もしこの性同一性障害の方の訴えが認められるのだとすれば、だったら職場やいろんな社会、コミュニティに属している「異端者」たちは、自分が属している職場・社会・コミュニティに対して「不当な扱いを受けた」と提訴して損害賠償金が取れるということになっちゃうんですか?

それは、おかしいでしょう。それじゃ、それこそ、最近よく話題になる「民主主義」や「権利の平等」がおかしくなっちゃうじゃないですか。民主主義って、基本多数決の考え方じゃないですか。基本的には多くの人が賛成するやり方に従って世の中のいろんなルールを決めて、物事進めていきましょう、ってことじゃないですか。

で、権利の平等って、「お互いに等しい権利がある」ってことでしょう?ということは、Aさんの権利や主張を認める代わりに、BさんやCさん、Dさんの権利や主張も認める、ってことですよね?お互いの権利を認める、ということは、お互いにできる限り最大限の権利は認めつつも、お互いの権利は侵害しないでおきましょう、ってことになるわけですから、どこまで個人の権利や主張が世の中に認められるか、という限界は「民主主義」に基づいた「多くの人が納得し、許容できる範囲まで」ってことになるんじゃないですかね?それが民主国家における法律の概念ですよね?

それが世の中を平和にするための先人たちの知恵から生まれた思想であり、物事の進め方なんじゃないかな、と私は思っているんですけど、その中において異端児の主張をいちいち認めてその異端児の要望を叶えられないと損害賠償請求のネタになる、だなんて民主主義や権利の平等の大原則に立てば、おかしいじゃないですか。

もちろん、多数決による民主主義と権利の平等が社会の大原則だからといっても、その多くの人の思想や考え方から外れた人もそれなりの数存在しているわけで、その人たちが社会から抹殺されてもいい、といっているわけではありません。そういう少数派の方たちにも「基本的人権」はあるわけですから、その方たちが最大限権利を認められて生活するべきだとは思います。

でも、それもあくまで「お互いに迷惑をかけない範囲で、お互いが折り合いつく範囲でお互いの権利を認めながらやりましょう」ということであって、お互いがお互いの主張を押し付けあわないで済むのが望ましいと思うんですよね。

であれば、もし主義主張がまったく折り合うことができない人がある組織やコミュニティに属しているとすれば、その組織やコミュニティにおける活動の中においては、お互いの主義主張は主張しないでおきましょう、というのがベストだと思うのです。次善の策は、それでもどうしても我慢ができない、と思う側があるとすれば、その我慢ならない側の立場の方がその組織・コミュニティを去り、自分の主義主張と合う方々がおられる組織・コミュニティに属する、ということになるのではないでしょうか??

なぜ、自分の主義主張と合わない職場に対して、自分の権利を認めろ、自分の異端さに職場の全員が寛容であるべき、といった考え方が出てくるのかがわからないのです、全然。いや、経産省の職員に逆に言わせれば、男女を問わず「だったらあなたが満足する職場に行けば?なんで私たちがあなたのために不都合や我慢を強いられる必要があるの?そっちのほうがおかしいでしょ?」という気持ちになるのではないのでしょうか?

なんか、ほんと、最近の世の中はおかしいです。性的少数者にももちろん平穏に暮らす権利はあるし、それは認められるべきだと思いますよ。でもそれは、ほかの多くのノーマルな人たちに対して「迷惑をかけなければ」という大前提があると思うんですよね。「私たちノーマルは性的少数者の方たちにはご迷惑はおかけしません、だからあなたたちも私たちに迷惑はかけんとって」という、お互いの権利を認め合う代わりに侵害もしない、というのが落とし所じゃないかと思うのです。

なのに、最近はそういう性的少数者の権利を認めるがあまり、逆に私たち大多数の性的ノーマル者がその方たちの権利を認める代わりに何かを我慢しなければならないような話が多い気がするんです。でも、それはちょっと違うんじゃないかと正直感じるんです。

いえ、もちろん私に性的少数者に対する寛容さが足りないというご批判は甘んじてお受けします。その点については私自身自覚はありますし、認めておりますので、そこはその通りだと思います。ただ、以前にも書きましたように、私自身GまたはBからセクハラまがいのことをされて大変不愉快な思いをした経験がありますので、性的少数者の方たちが性的ノーマル者の平穏な社会活動を侵食し脅かすことについては、個人的に許し難く感じる気持ちが強くなってしまうんです。

ですから、何度もこのブログに書いていますように、性的少数者の方もご自分がお好きなように暮らし、そして働きになったらよいと思うんです。ただし、その方たちと性的嗜好が異なる人たちには一切迷惑をかけないのであれば、という条件付きです。もちろん私たちも性的少数者のみなさんに迷惑はかけるつもりはありません。

混ざって暮らしたり、働いたりしようとするから、世の中おかしくなっちゃうのかな。平等、平等、権利、権利とか何か口を開けばいいますけど、お互いに容認しあえない存在って世の中にはあるんですよ、絶対に。だって誰一人として世の中のすべての人と心底仲良くなれる人なんていないんですもの。海外に行けば宗教や人種でお互いの存在を容認しあえないと思っている人たちはたくさんいます。

日本は人種が単一で、宗教も仏教徒が大多数なので、そういった国内対立というのは歴史的に見ても少なかったと思うのですが、最近は権利主張が強くなってきたからか、今まで表に出てこなかった「少数vs多数」の対立があぶりだされてきているように感じます。

どちらかがどちらかの主張を強く押し出せば喧嘩にしかならないし、今回のように訴訟するまでに至るのかもしれません。しかし、このあたりで改めてあらゆる面における「少数者」の存在を社会に存在していることを多くの人が認識し、その人たちの正当な権利を認める代わりに、そうでない多くの人たちの権利や存在も少数者は否定も侵害もせず、そしてそれぞれが心地よく暮らしていけるようお互いに気を使う、という社会にもっていくプロセスが必要な時期なのかもしれませんね。

場合によってはそれぞれの存在が融合するのではなく、独立して存在することも必要になってくるのかもしれません。日本人は戦後の平等思想のせいか、こういった問題については「なんでも混ぜればいい」と思っているように感じますが、混ぜた結果が最近の社会の混乱を招いているような気もするのです。

私自身は「平等や権利」というものは混ぜることによって成立するものではないと思っているところもあります。混ざらないもの、あるいは混ぜにくいものについては、あえて分けて存在しておくことがお互いの権利を平穏に維持できる場合もあるんじゃないかとも思うのです。

そんなことを書けば「そりゃ、差別だ。時代が逆戻りするだけだ」とお叱りを受けるのでしょうけれども、正直「そうかな?」と思うところも少なくありません。もちろん混ざりたい方たちは混ざればよいと思います。ですが、混ざりたくない、と思っている人たちがいるのも事実で、その人たちの考えも尊重するべきではないかと思うのです。

まあ、むつかしい問題です。人によってお考えは大きく変わるでしょう。私のような考えをしている人は少数派かもしれません。ただ、社会に無用な軋轢を巻き起こすような「権利主張」だけはやめてほしいと思っているところではあります。

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