税理士もりりのひとりごと

税理士もりりがぶつぶつと日ごろの出来事についてひとりごとを綴っていきます





  税理士もりりのひとりごとのナビゲーター   トップページ > 2008年09月  

スポンサーサイト

-- - --/-- [--] - --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

サブプライムと米偽装

2008 - 09/27 [Sat] - 01:39

 最近思ったんですけど、世界の経済に大打撃を与えているサブプライムローン問題って日本の米の偽装問題と構図が全く一緒ですよね。サブプライムローンって、言ってみれば消費者金融からしかお金借りられないような人に対して住宅ローンを組ませるようなもんですよね。普通に考えれば返済できるわけないですし、まずそういう人達に対して資金を貸し付けること自体があり得ない話ですよね。でも住宅の担保価値が高いとか、住宅の価格が上昇を続けていたとか、そういった理由でジャンジャンお金を貸していたわけですよね。


 しかしそうは言っても貸手側はやっぱりこういう人達に貸した債権は怖いので、ご承知のように証券化して他の金融商品と混ぜてどんどん売り飛ばしてしまったわけですよね。リスクが高い債権でも他の安全な金融商品と混ぜればわけわかんなくなるだろ、ってなもんですよね、分かりやすく言えば。食えない米でも食える米と混ぜちゃえばわかんない、っていうのと全く同じですよ。ところが蓋を開けてみるとアメリカの不動産価格はどんどん下落、低所得の債務者は予想通り返済不能、となればサブプライムローン自体の価値などほとんどないわけですよ。それで結局サブプライムローンの債権をばれないように混ぜ込んで世界中に売り飛ばしていた金融商品はガタガタと下落、おかげで世界経済はご承知のような状況、というわけです。


 翻ってお米の問題。事故米と呼ばれる商品価値のないお米を安くで仕入れた業者は他の普通のお米と混ぜることを繰り返すことによって事故米自体を高く売る手法を編み出したわけですよね。つまり本来なら全く価値のないサブプライムローンの債権を小口に証券化して他の商品と混ぜて、さも安全な金融商品であるかのように「偽装」して転売と組みかえを繰り返すことで高額で売り飛ばして儲ける仕組みを編み出したのと全く同じ構図な訳です。


 結局どちらもやってることの本質は「偽装」ですよ。相手を騙して金儲けする為だけに考え出した「ごまかし」で、根本は詐欺と一緒ですよ。最終的にはどちらも化けの皮とからくりが白日の下に晒されてしまって米の方は日本中で大問題、サブプライムは金融機関がバタバタと倒産、ってことになっちゃったわけです。そう考えればしょーがないですよね、だって悪いことしてたんだもの、人を騙して大儲けしてたんだもの、当然の罰ですよ。


 でもね、詐欺を行うような連中は必ず場所を変えて同じことを繰り返すんですよ。だって美味しい商売ですからね。アメリカの証券会社や銀行が潰れたって、社員はまた別の会社で働くわけですよ。法人を動かしていたのは人なんですし、法人が無くなったからって人が死んでしまうわけではないですからね。それにこいつらは高い給料もらっていたから会社が無くなったって痛くも痒くもないですしね。当然反省などしているわけもないし。だから同じ人が別の場所で同じことを繰り返し行うだけのことですよ。米だって一緒。たまたま米の問題が表面化しただけのことであって、こんなこといつどこの商売でおきたって全然不思議じゃありません。


 話は変わりますが、かつての大阪の米相場は先物取引などもあった最先端の商品市場だったとか。なるほどだから事故米を少しずつ混ぜて高値で転売を繰り返すという大阪の米商人が思いついた商品化手法がサブプライムローン関連証券に応用されて世界で金儲けの道具に使われていたのか。日本の米問屋は今でも世界の金融・商品界の最先端ですなぁ(笑)。

スポンサーサイト

「字」のはなし。

2008 - 09/24 [Wed] - 12:58

 よく「字は人を表す」なんて言いますよね。このことについて私の経験から得たことを書いてみましょう。この言葉の意味は「字を綺麗に書く人は心も綺麗」ということが多いわけで、だから「字を綺麗に書きましょう、そうでないと他人からあなたの人間性が疑われる」という話に続くわけですが、まず結論を先に書いてしまいますと、「字は人を表す」かと言えば答えは完全に「ノー」です。字の美しさは人間性の美しさなど一切表しませんし、人間性が素晴らしいから字が綺麗かと言えばそれは全く違いますしむしろ逆だと思います。ただ「字を書く」という行為に対する各人の姿勢や考え方を表すことはあるので字に性格や考え方は表れます。


 まず綺麗な字を書く人、特に達筆といわれる域にまで字を上手に書くことができる人は他人に対して厳しい人が多いですね。これはきっと「自分はこれだけ字を上手に書くことができるのに、なぜあなたはできないのか。それはあなたがだらしないからだ、努力していないからだ。」という頭で他人を見分ける傾向があるからだろうと思います。これは礼儀作法を必要以上に重んじる人にもよく見られる傾向で、こういった方は他人を字、服装、姿勢、態度、礼儀などだけで自分の気に入る、気に入らないを即断し、その後の修正をほとんど行わない傾向があります。まあ一言で言えばプライドの高い「偉い人」ですね。超保守的な教育や考え方が体に染みついた方にこういう方が多いので勢いお年を召した方によく見られますが、必ずしもそうとは限りません。


 ではそういう方々自身はきっちりしているのかと言えば、私が観察した限り他人に礼儀作法などを求める割にはそれほどでもない方が多いですね。こういった方は常に「自分はきっちりしている。自分は正しい。」という意識がとても強いので他人には厳しいのですが、自意識が異常に高いだけに自分に対する客観視はあまり得意ではないようです。ですからともすれば表面的はどうであれ、本心は独りよがりで横柄、取っつきにくい方が多い気がします。


 ですから実は私はあまりに字を達筆に書く方や、丁寧に書く方、そしてTPOから見て過度に礼儀正しい人などを見かけると信頼するよりも先に警戒してしまいます。「この人は何を考えているんだろう。この愛想の良さの裏側で何を本心で考えているのだろう。私のどこをあら探しするのだろう。」と強く思ってしまいます。そういった方は実は身の回りにはそれほどいませんから、もし身の回りにおられればよく観察してみればよいと思います。そういう方は先ほども書いたようにとても他人に厳しい人なので、いくら愛想良く話しかけてきたからと言ってもその人に対してタメ口で話したり馴れ馴れしい態度を取ったりすると最低の評価が下されますので、そういった態度は当分の間しない方が賢明だと思います。そういう意味では「字が綺麗な人」は心が綺麗というより、むしろ「難しい人、慇懃無礼な人」が多いと思います。


 一方で字が汚い人はどうかと言えば、これは本当に余り性格を表していないように感じます。これは私が上場企業の社長直属の部署にいた頃に社長直筆でメモ書きがしてある社内回覧が回ってきたときに気が付いたことですが、私が知っている限りでは社長になる人はみんな字が汚いですね。汚いと言うよりは所謂「チャラ字」であると言った方がいいでしょうか。これを見て私自身も「字が汚くても社長になれるんだから、オレも字が汚くってもイイや」と強く思ったものです。でもこれには理由があると思うのです。つまり偉い人や仕事ができる人は字を丁寧に書くことにエネルギーや時間を注いでいられない、と言うことがあると思うのです。草書や行書は別にしてやっぱり字を綺麗に書こうとするとどうしても時間と手間がかかります。ですから仕事に重きを置いているような方は大変忙しいので字を丁寧に書くことにそれほど意義を見出していないのだと思います。もちろん時間をかければ綺麗に書ける人もいるでしょうが、私が見た限りでは上場企業の社長になるような方はやはり達筆ではなく、そもそもが悪筆である方が多いと思いますね。


 ただ仕事ができる方々の字には力があります。チャラ字ですがとても力強い字を書きます。比較的大きめな字でサッサッ、と筆圧を強く書きますので、この辺りにその方の自信や考え方が表れているような気はします。そういう意味で言えば、字が小さく書く人はその人そのものも、考え方もパワフルでない感じがします。よく言えば慎重、悪く言えば小者で小心者、という傾向はあると思います。ですからもし字が人を表すとすれば字の大きさに性格がでるという気はしますので、今小さな字をコチョコチョと書いている方はとりあえず字を大きく書いてみてご自分の殻を破ってみてはいかがかなぁと思いますね。


 ただ先ほど字が汚いからと言って性格を表しているわけでないと書きましたが、だらしない字を書く人はこれは要注意です。例えば手紙やハガキの表書きのようにどのような状況であってもできる限り丁寧に書くことが当然である場面にもかかわらず(この場合綺麗に書けるかどうかは関係ありません)、だらしない字を書いてくる人は残念ながらあらゆる物事について意識が低すぎる傾向があるのであまり高い信頼を寄せない方が良いと思います。もうこれは字云々の話ではなく、その方の生き方そのものの問題と言ってよいと思います。自分のベストでよいので丁寧に物事を行わなければならないような状況においても無頓着にだらしなくできると言うところが問題なわけです。


 また時々楔文字のようにあらゆる文字の角を鋭角に書く方がおられますが、これはこの字の通りに性格も鋭角な方が多いですね。まあ「ナイフのようにとがっている」と言えば分かりやすいでしょうか。当然友達はあまり多くありませんし、触るもの皆傷つけるタイプなので相当な変わり者です。歳を取ったからといって変わるわけでもありません。同じ職場に長く勤めることはあまりありませんが、希に余程度量の大きな人の下ではそれなりに勤め上げることもあるようです。しかし変わり者なので常に周りとのトラブルは消えることがありません。


 ということで結論に行きますと、字は人を表しません。但し字を過度に綺麗に書く人やだらしなく書く人、そして楔形文字にはちょっと注意しましょう、ということでしょうかね。それから小さい字を書く人はいろいろと損をすることが多いかもしれないので、自信を持って大きく力強く書いてみましょう、というところですね。それ以外の大多数の方は字などそれほど気にすることはないですよ。もちろんいざというときには字は汚いより綺麗な方が良いですから、できるだけ綺麗に書けるように努力したり練習することは一つの礼儀としてとてもよいことだと思いますが、「字が綺麗に書けないから自分はダメだ」なんて落ち込むことは全くないと思います。だって字を上手に書くってことも一つの芸術、才能みたいなものなのですから、どれほど努力したからといってみんなが字を上手に書けることなどあり得ません。誰もがスポーツ万能や絵が上手なわけでもありませんし、スポーツや絵が上手にできるからといって人間性が素晴らしいと思うはずがないのと同様に、字が上手に書けるから人間性が良い、下手だから悪い、なんてことがあるはずがありません。


 大切なことはいざという場面にあなたが一生懸命良い字を書こうとして努力したことが伝わればよいのであって、綺麗な字を書くことだけが素晴らしいわけではありません。歴史上の人物(特に近代)や社会的地位が高い人などの字を見れば彼らが達筆でないことは容易に分かりますので、字の綺麗・汚いで人間性や社会的地位までもが決まってしまうなんてことは絶対にないと思いますよ。ぜひ安心して自分らしいおおらかな字で自由に書いてみて下さい。それが一番だと思いますね。

「POP BOY」というお店

2008 - 09/24 [Wed] - 08:20

 久しぶりに食べ物の話を。先日ちょっとした用事があったので以前から食べてみたかった「POP BOY」というお店に行ってみました。ここはどういうお店かと言えば、この30年ほど私がずっと通っていた神戸三宮のさんちかにあった「赤ひょうたん」というお店が近年なくなってしまったのですが、その味を受け継いだお店とネットで見かけたところです。場所は神戸市長田区庄山町ですが、どちらかというと須磨区の板宿に近いところにあります。


 お店に行ってみるとどこかで見たようなご主人が厨房からにこやかに挨拶してくれます。はっきりとは覚えていないのですが、確か昔は赤ひょうたんの厨房には男のコックさんがお二人おられたのですがそのうちのお一方(お若い方)だったような気がします。料理のメニューは赤ひょうたんよりもバリエーション豊かですが、ほぼまんま赤ひょうたんといって良いと思います。私はほとんどの場合子どもの頃からお腹が減ると赤ひょうたんに行ってハンバーグのセットを食べていましたので、本当に赤ひょうたんの味の通りかどうかを確かめるためにいつものようにハンバーグのセットを頼みました。


 しばらく待ちますと目の前にハンバーグのセットが出てきました。出てきたものを見るとそれこそまんま赤ひょうたんでした。そして食べるとやはり赤ひょうたんのハンバーグとサラダ。嬉しかったですねぇ。涙が出るほどではなかったですが(笑)、でも赤ひょうたんの味をこれからも食べられることがわかってものすごくほっとしました。相変わらず野菜の混ざった柔らかめのハンバーグにチーズとトマトソース。サラダは十分な量があり、昔通りのドレッシング。そして添えられたポテトフライとからし、みそ汁、御飯。完璧です。これです、これがずっと食べたかった。


 でもセットには上記の昔ながらの内容の他に和の煮炊きもの小皿とコーヒーまたは紅茶が付いてきます。それで値段は昔のままですから三宮価格から長田価格になったのだと思います。或いは客席を見回すと赤ひょうたんと違って地場のご高齢とお見受けする方が多いので和を取り入れたのかも知れません。しかしこれは要りませんね(笑)。昔からの赤ひょうたんファンの立場から言えば、和の小皿は味の範疇が全く違うので無くてよいと思います。


 まあそういうところもありますが、とにかくこのお店は噂通りまんま赤ひょうたんであることは間違いありませんでした。よかった、本当によかった、赤ひょうたんの味を昔ながらに味わえることができて本当によかった。家からちょっと離れているので赤ひょうたんのように「お腹が減ったからバイクでちょっと」なんて感じで食べにいけないのは残念ですが、それでも足を伸ばせば行けない距離ではないですから問題ありません。またあの味が食べたくなったら頻繁に通うことになると思います。これで私の贔屓店復活です。

税理士に関する日々雑感など

2008 - 09/19 [Fri] - 01:46

 最近思ったことを少し。一つは何かを読んでいるときに「税理士は税理士試験で『節税』を勉強するわけではない」という文章を読んだものですから少し反論を。この文章を書いた方は税理士試験合格者なのだそうですが、おかしいと思いますよね。特に税理士試験を受けた方であれば。税理士試験を受けたことがある方ならお分かりだと思いますが、税理士は節税の方法を税理士試験の勉強で習いますよ、当然。だって税理士試験では「解答を書く際にはできるだけ納税額が少なくなる方法を選択すること」ってことになってるじゃないですか。


 だって考えてみて下さい。節税を考えないで法人税の解答を行えばよいのであれば「受取配当の益金不算入」とかといった任意選択の減算要素を全て無視してしまっても税法上は何ら問題ない申告ですから、これでも「正解」ということになってしまうじゃないですか。税法に違反していなければ思いっきり高い税額になるように解答を書きゃイイ、って話になっちゃうじゃないですか。国税庁が泣いて喜ぶ答案で、即合格!ってなもんですよ。でもそんなことないでしょ、実際は。実際にはできる限り減算の要素も解答して税額が少なくなるように解答用紙に書くじゃないですか。だから税理士試験では「節税」も問われているのは明らかなんです。


 先ほどの文章をお書きになった方がどんな試験をお受けになって税理士になられたのか私にはわかりませんが、税理士試験で積極的に「節税解答」を書くことになっているのは専門学校の先生が年間の授業の最初に話してくれる通りですよ。節税を無視した解答を書くのであれば相続税でも小規模宅地等などを考慮する必要ないでしょ?あれだって別に任意なんですから、小規模宅地を選択しなきゃいけない、っていう条文はどこにもないんですから。財産評価だって別に安くなるように一生懸命有利選択する必要もないわけですから。仮にも「税理士試験に合格した」方であれば、そんないい加減なことを書いちゃいけませんよ。税理士は試験の段階はもとより、実務においても積極的に節税しなければ訴えられて負けちゃうんですから、「税理士は『節税』を習わない」なんて大ウソですよ。税理士は常に節税を考えてなきゃいけない職業ですよ、あまりバカにしないで下さい。


 それからもう一つ、公認会計士協会が税理士制度を批判していることをふと思い出したんですけれども、その批判の中で「税金の申告などだれでもできる。税理士という資格を設定する必要などない。」と書かれていました。それがどうしても引っかかっていたのですが、それで毎年の所得税の税務支援の時のことを思い出しました。当然所得税の税務支援ですから相談者は所得税の確定申告書の書き方を相談しに来られるわけですが、時々公認会計士の方も税務支援に来られるわけです。で、その方が一言目におっしゃることは「いやぁ、僕らは法人の会計と税務ばっかりしてるから、所得税とか相続税は全然知らないのよ。」って言い放たれるわけです。いや、そりゃあ私だって所得税は得意ではないですけれども、それでも相談に来られる方の応対くらいはできますよ。


 先ほど公認会計士協会が「税金の申告などだれでもできる」と税理士批判をしていることを書きましたが、そうおっしゃる会計士、それも税理士資格をお持ちの方が自ら「所得税と相続税はわからん」と公言するっていう矛盾はどうなんでしょうか?所得税のことすら分かってない公認会計士の集団に、なんで「税理士不要論」を堂々と言われなきゃいけないんでしょうか?確かに法人税に関しては大企業の申告にも携わる機会が多い会計士の方が一般的な税理士より知識と経験は豊富でしょう。それは私は全く否定しませんよ。でもそれ以外の税法については会計士の方は自分でも「からっきしだ」って公言するじゃないですか。じゃあそれが税理士の存在意義の一つなんじゃないですか?


 そんなことを言うんだったら、税理士に会計監査の法的知識とノウハウを教えてくれれば税理士が公認会計士になれる、って言うのと同じ理屈になっちゃうじゃないですか。「やり方教えてくれりゃあ、税理士が会計監査してやるよ」って言うのと同じですやんか。税理士が会計監査をできないのは一言で言って「やったことないから」ですよ。公認会計士が所得税と相続税の申告実務を「やったことがない」から税理士資格を持っていても全然分からないのと全く一緒ですよ。じゃあ税理士に会計士の資格をくれたっていいじゃないですか、会計士だってやったことないのに税理士の資格がもらえるわけですから、税理士にやったことがない会計監査ができる資格くれたっていいじゃないですか。何か不都合がありますか?


 まあそんな言いがかりを会計士に対してするつもりなど私は全然ありませんよ、ホントは。税理士も公認会計士も住み分けてるわけですからそれでいいじゃないですか。お互いにできない部分がある訳なんですから。別に私は企業監査をしたいなんて思いませんよ。そりゃあ儲かるので悪くない仕事だとは思いますが、あんな細かいめんどくさい仕事なんか大変ですもの。私は企業にいた頃会計監査に担当者として立ち会ったことがあるんですが、会計士か会計士補がいろんな色の付箋と蛍光ペンを使って細かく調べて、そりゃあ大変な仕事ですよ。正直、よーやるわ、と思いましたよ。それだけ大変な仕事なんだから高い給料をもらって当然、それでいいじゃないですか。会計士は会計士で立派な仕事だと思いますよ。でもだからといって会計士協会から「税理士は要らない」と言われる筋合いはないと思いますね。所得税も分からない人達にそんなこと言ってもらいたくないですからね。


 でもね、もう一つこれは疑問を。最近税理士が政治家や自治体などの外部監査をできるようになったらしいのですが、これには「なんで?」って思いますね、正直。だって仕事は「会計監査」でしょう?税理士が会計監査をしてもいいの?できるの?って話なんですよね。一生懸命日税連が税理士の職域を広げようとしているのはよく分かるんですよ。多分証取法か何かで会計監査を義務づけられている法人の監査はどう転んでも公認会計士にしかできないので、それ以外の「会計監査」を少しずつ税理士の職域に取り込んでいこうという魂胆なのだろうと思います。でもね、さっきの話じゃないですけど税理士は監査などしたこともないしやり方も知らないわけですよ。だって本来的な職域じゃないですからね。そんな連中に付け焼き刃的に研修を行ったくらいで監査させていいもんなんでしょうかね。税理士がいずれ会計士になれることを見越してこういったことを行っていっているのであれば喜ばしいことですが、そうでないのであればあまり分不相応な部分にまで職域を広げない方がいいと思うんですけどね。会計参与にしてもそうですけどね、あれって税理士が本来すべき仕事なんでしょうかネェ。税理士が会計士の資格を持つ、あるいは相互乗り入れができるようになって初めてできる仕事だと思うんですけどね・・。日税連は税理士をどうしたいんでしょうネェ?なし崩し的に勢いで会計士の資格と統合させるのが狙いなんですかね。


 最後に一つ余談を。先日会計士協会のホームページを見てみました。レベル高いです(笑)。日税連のホームページとは書いてある内容のレベルが違いすぎます。会計士の個々の方々がレベル高いかどうかは知りませんが、少なくともそれを束ねる会計士協会の意識は相当高いレベルにあります。正直書いてある内容が難しすぎて私にはよくわかんなかったです(笑)。会計基準の見直しなどで会計士は世界を常に視野に入れながらどんどん先に進んでいるぞ、税理士はどうする。もっと大きな世界を目指す必要が在るんじゃないか?そのために何をするべきなのか?税理士自身のレベルアップをよくよく考えないと世間から置いていかれるぞ。

サントリーのCM

2008 - 09/14 [Sun] - 12:46

 最近テレビを見ていて「あれっ」と思ったことを。それは最近のサントリーの缶コーヒーBOSSのCM。見るとゴリラがジャズを歌っているというユーモラスなもの。CGなのか特殊メイクによるものか、そのあたりのからくりはわかりませんが、よくできたCMで話題になるものだと思います。


 でもこのCMを見て最初に思ったことは「おいおい、こんなCM作っていいのかよ」ということ。つい先日も確か携帯電話かどこかの会社がニホンザルが選挙演説をしているCMを作って、これがアメリカ大統領候補のオバマ氏を連想させ、黒人系であるオバマ氏をサルに見立てたことが侮辱的だということで放送を取りやめた経緯がありました。


 翻って今回のサントリーのCMで、ゴリラがジャズを歌うわけですが、大体言いたいことはわかりますよね(笑)。ジャズは元々黒人の音楽で、その音楽を黒いゴリラが歌うわけです。いや、そのCMで流されている曲を実際に歌っている歌手が黒人か白人かは私にはわかりませんよ。でもジャズを黒いゴリラが情感豊かに歌っている場面はさすがに黒人を侮蔑していると捉えられかねないのではないでしょうか。


 サルっている動物は大体差別的な表現によく使われる動物なんですよね。日本をはじめとするアジア人もよくサルに例えられますし、黒人もそうですよね。このCMの曲を歌っている人が仮に黒人だとすると、今回のサントリーのCMは非常にまずい事になりますね。日本人はこのCMを見ても気にしないで楽しめると思いますが、アメリカの人などが日本でこのCMを見たら場合によったら大問題になる可能性だってありますね。


 日本人には基本的に肌の色の違いに関する差別に関しては鈍感ですからね。だからこんなCMを作っても気にならないのでしょうが、肌の色の差別に敏感な国の人が見たらこのCMは大抗議ものになりかねません。個人的には大問題になる前にサントリーが自主的に放送を取りやめたほうがいいんじゃないかなと思いますね。

印紙税の課税根拠って?

2008 - 09/09 [Tue] - 09:23

 様々な場面において書類に貼られる印紙について疑問に思う方は多いと思います。私もその一人です。印紙税法は税理士の職務範囲に入っていませんから税理士もなぜ印紙税が課税されるのかその根拠をあまり詳しく理解していませんし、当然ながら課税当局などから課税の根拠について詳しく解説をしている書物も見かけません。これは先日ブログに書いた固定資産税とよく似た話に思えるのですが、結局課税当局から見てあまりはっきりと課税根拠を言いたくない税金については基本的に大きな声では言えない裏の理由があると考えるのが適当だと思います。


 なぜ自分が作成した文書に印紙税という税金を納めて購入した「印紙」なるモノを貼らなければならないのか?登録免許税であれば手数料としての側面があることは誰にでも容易に理解できますが、印紙税については手間をかけているのは文書を作成した当事者なのですから手数料としての課税根拠がないことは明らかです。そこでこの理由を私なりに考えてみましたが、そのポイントは「印紙を貼らなかったらどうなるのか、印紙を貼らなければどういう問題があるのか?」ということを考えてみればよいのではないかと思います。


 例えば3千万円の商品の売買が成立して契約書や領収書を発行するとしましょう。そこでもし印紙税が無いとして印紙をその契約書や領収書に貼付しなくてよいとしたらどういうことが行われるでしょうか。多分悪知恵が働く人が同じ契約書や領収書を何枚も発行していろんな人に配ったり、或いは契約金額や領収額を自分の都合のよいように書き換えた契約書や領収書を複数作って場面場面で使い分けるでしょうね。でそれを当然ながら脱税に使うわけですよね。もちろん印紙税という税法が有ろうが無かろうが架空領収書や虚偽の契約書の作成などやる人はやるんですが、それでも多くの人にとってはこの印紙税があるおかげで架空領収書を作る心理的な抑制効果は高いと思います。


 だって3千万円の工事請負契約書を作るのであれば、それを作るだけで2万円(今は15千円)も印紙を貼らなければいけませんものね。ウソの契約書を作るのに2万円も貼るのなんて普通はバカバカしいですよね。「それだったら印紙なんか税務調査があるまで貼らなきゃいいじゃない」と普通は考えるわけですが、実際に調査があったときには税務当局に証拠として見せるために結局そのウソの書類に印紙を貼らなきゃいけないわけですからやっぱりめんどくさい話なのです。


 何故こんな風に思うのかといえば、医師、弁護士、税理士等が営業で受領した金銭については何故か「営業ではない」という変な理屈を付けて印紙を貼付すべき課税文書から外してくるあたりに何となくその理由を見出すことができる気がするのです。どう考えても「営業」であるのは明らかなにもかかわらずこの人達が報酬を得た場合には印紙を領収書に貼る必要がないのです。或いは行政側が作成する文書については印紙を貼る必要がない事などから見てもそう思えるわけですね。


 つまりこういった人たちは遵法意識が比較的強いので架空の領収書など発行する可能性がきわめて低く、従ってこの人達が作った領収書などには印紙を貼って内容を担保させる必要はないということなのではないでしょうか。また銀行振込の場合には金銭授受の事実が客観的に確認できますから、敢えて受領書の発行が求められず、当然ながら印紙を貼る必要もないことから見てもそういう理由を見出すことができるのではないかと思います。


 結局のところ印紙税の根拠というものは「税金の申告の根拠になるような領収書、契約書などを作るときにはえーかげんな内容の書類を好き勝手に作らへんように、書類を作った奴が責任料を払って内容の保証をせんかい!」ということ何じゃないでしょうか。だから税金の計算の資料になりそうにない書類には印紙を貼る必要がないですよね、基本的に。


 まあ課税当局から見れば要するに脱税を未然に防ぐために、そこそこの金額が書いてある契約書や領収書を作るときにはその金額に応じた作成責任代を納めなければならない、というルールを作ったのでしょう。もし印紙を貼付しなければならない書類に印紙を貼付していなければ最低でも1.1倍のペナルティを払わせてその作成責任の重さを認識させる、ということでしょうか。結構ペナルティも他の税金と比較して高いのも自己責任を果たしていないことに対する罰則ということでしょうかね。


 でもあからさまにそういう理由でもって印紙税をかけるんですよ、とは書きにくいもんですからあのような当たり障りのない、というか訳の分からない根拠で課税していることにしているんでしょうね。それはまさに固定資産税の課税根拠と全く同じです。固定資産税は場代が取りたいだけ、印紙税は脱税やその他の犯罪抑止としての書類作成責任を書類作成者に負わせるため、というのが本当の理由ではないかと思います。だって本来的には私的に文書を作成したことに対して税金を支払わなければならない理由などどう考えたって存在しませんものね。


 結局お上から見て文章を作ったという行為に対して金銭的に負担させなければ許すことができない理由があるからこそ印紙税という税金があるわけですよね。つまりそれは何かといえばお上から見て「狡い」と判断される行為、即ち脱税を代表とする犯罪行為を未然に防止する目的があるからではないでしょうか。


 印紙を書類に貼りたくなければ契約書や受領書を作らなければよいわけですよね、極端な話。だって法的には書類を作らなくても契約や金銭の授受の事実は有効なわけですからね。しかし一般的に契約内容や金銭授受の事実の証拠として契約書や領収書は作りますよね、だってそれがないと第三者に対して客観的に内容を示せませんからね。


 課税当局としても客観的な証拠書類がないと事実確認が出来ませんので、納税者側も課税当局や第三者にその内容を証するためにこういった書類を作成しますよね。結局そういった契約や金銭授受の事実を「書類で証明したいのであれば」その書類に「証明手数料」を払いなさい、そうすればお上だって認めてやるで、ということでしょうね。


 印紙税の根拠を「金銭受領による担税力」に求める説を時々見かけますが、これは全くの課税サイドからの詭弁を鵜呑みにしているだけでしょう。だって担税力に課税根拠を求めるのであれば、なぜ契約書を作成するときに本書と請書の両方に印紙を貼る必要があるのでしょうか。売手と買手がいる場合、通常担税力があるのは金銭を受取り利益を得る売手側に決まっています。買手は多額の金銭を支出するわけですから担税力などあるわけがありません。


 担税力に基づいて課税されるので有れば印紙は売手側だけが契約書や受領書に貼ればよいはずです。そう考えると印紙税の課税根拠は本来的に金銭授受に基づく担税力にあるわけではないのです。「もし貼らなかったらどういう弊害があるか?」ということを考えると本当の課税目的が見えてくるわけです。印紙を貼らない契約書や領収書があると課税当局や公安当局にとってどのような問題があるか、そういう側面から見れば印紙税の位置づけがわかりやすくなるのではないかと思います。


 要するに印紙税の課税根拠は「悪いことが行われやすい場面で作成される書類には証拠としての能力を持たせ、かつ書類作成者に内容に応じた作成責任を負わせるために一定の金銭を納めさせる。」と理解するのがベストだと思うのですがどうでしょうか。だから不正が行われにくい場面で作成される書類には印紙が要らないわけです。当然行政側が作成する契約書などには印紙は要りませんからね。なぜなら行政側が脱税を行うことなど先ず考えられないという頭があるからです。


 まあ「印紙でも貼らせておかないと一般大衆は何をしでかすかわからない。」という官側から見た不信がそもそもの印紙税の根拠でしょうね、多分。「これだけの金額の行為を行ったということを他人(当然税務当局を含む)に対して自分自身で証明したいのであれば、それだけの担保を国に支払え。」ということでしょうね。まあ何となくわかるような、やっぱりふざけてるでぇという微妙な税金ですよね。まぁしかし印紙税とは課税側からすれば実に取りやすい税金ではありますし、官から見た民に対する不信からできた税金と言うこともできるかも知れませんね。

大分の不正合格教師

2008 - 09/07 [Sun] - 11:54

 最近大分で不正に合格した教師の処分について「既に担任に就いている者もいるので子供たちへの影響がある」とか「教師には人間性が大切。試験で良い点を取るだけが良い教師の条件ではない」といった調子で不正合格者を擁護するかのような論調で報道されることがあり少し驚いています。


 なんかそう言われると浪花節的に不正合格者を許してやろうかなー、という気になりかねないのですが、でもちょっと待ってください。よく考えればそれはやっぱりおかしい話ですよね。


 「子供への影響が大きい」と言いますが、子供の人間性教育のことを本当に考えるのであれば信賞必罰を教えるほうがよっぽど大切だと思いますね。つまり例え今担任をしていて生徒から慕われている先生だとしても、悪いことや狡いことをしたのであればやはり罰を受けなければならないのだ、という事をきちんと子供達に教えるべきだと思うのです。


 だってもし先生が痴漢や泥棒をした場合には速攻でクビになっちゃうでしょう?その時に生徒への影響なんて考えないでしょう?なんで今回だけ生徒達への影響を考えるのか全く不思議ですね。


 それと「試験の点より人間性が大切」と言いますが、ズルして試験点数にゲタ履かせてもらって採用された先生の人間性が優れているというのもおかしくないですか?この人達の不正合格のせいで不合格になった方達の方が人間性が優れていることだって充分考えられるでしょう?


 なんか最近のマスコミの報道にはおかしな感じがするんですよね。「狡い事をしていても既成事実になっていれば今更蒸し返さないほうがいい」っていう雰囲気があるんですが、「それは違うだろう?」って思うんですよね。今回の事件は教育に関するものなのですから子供への教育面から解決策を考えるべきだと思いますねぇ。先生が急に辞める影響よりも世の中の大切なことを教えることの方がずっと重要だとおもいますね。

 | HOME | 






プロフィール

もりり

Author:もりり
当ブログにお越しいただきありがとうございます、税理士のもりりです。のんびりと、時々辛辣に日々感じたいろいろなことを自由に書いていきたいと思います。

最新記事

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。