税理士もりりのひとりごと

税理士もりりがぶつぶつと日ごろの出来事についてひとりごとを綴っていきます





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談合や贈収賄事件の罰

2007 - 05/31 [Thu] - 07:09

 最近談合事件の報道が多いのですが、またありましたね。今回は大阪府警の警官と大手ゼネコンが捕まってました。


 それでその時ふと思ったんですが、この談合事件によっていろいろな企業の担当者が逮捕されるのですが、どうもいつも同じような名前の会社の担当者ばかりが捕まっているんですよね。今回の事件でもまた鹿島の名前がでてきてますものね。鹿島と言えばほとんど最大手のゼネコンですが、もうそれこそ以前から頻繁に談合事件や贈収賄で名前が挙がる企業ですよね。


 それで不思議なんですが、何でこんなにくり返し犯罪をおこす企業が社会に存続し続けることができるのでしょうか?もし個人だったら鹿島など前科数犯、どうしようもないほど立派な犯罪者ですよ(笑)。牢獄に何度もぶち込まれているような。それも同じ犯罪を繰り返して捕まるわけですから相当悪質な犯罪者です。それなのに法人であれば何度談合や贈収賄をしても相変わらず一流企業として株式の上場が行われ、普通に資金調達もでき企業活動が行えるわけです。


 結局本気で談合や贈収賄が「悪」「犯罪」であると社会的に認識されているのであるならば、このような犯罪をおこした企業自体が上場廃止、或いは解散等の罰を受ける制度を作り上げる必要性があるのではないでしょうか。本当に鹿島など前は贈収賄、今度は談合と、何度社員が捕まっても全く懲りる様子すらありません。こんなに頻繁に犯罪を犯す、いわば犯罪者集団であるかのような体質の企業が存続していることに疑問を感じてしまいます。


 本気で世の中から談合や贈収賄を無くしてしまいたいと国が考えているのであれば、そのような犯罪に一度でも手を染めた企業はその存続そのものが危うくなるような処罰を与えるべきでしょう。そうでなければいつまで経っても「一担当者が独善でおこなったこと」という決まり文句のもと、鹿島のような企業がいつまでも生き残り、そしていつまでも同じ談合や贈収賄をくり返すだけです。談合や贈収賄は企業にとっていわゆる「美味しい」成果をもたらす仕事なのですから、結局担当者が処罰されても、会社が生き残っている限りいつまで経っても同じことを繰り返すに決まっています。


 ですから例えばこういった犯罪を行う企業には上場廃止にするとか、金融機関からの借入や社債の発行が一定期間できないようにするとか、営業停止処分や法人自体の解散命令ができるとか、そういう厳しい処罰を与えることはできないのでしょうかねぇ。なんかそういう意味で今回の談合事件を見ていても釈然としないものを感じますねぇ

山口母子殺害事件と人権派弁護士

2007 - 05/28 [Mon] - 10:40

 山口の母子殺害事件の裁判などをテレビで見ていると思ってしまいますねぇ。やっぱり他人を殺した人は理由が何であれ死刑になるべきですね。この山口の事件の裁判でも被告側には死刑廃止を主張する訳のわからない人権派弁護士が二十人も弁護しているそうですが、ホントにこの人権派弁護士ってバカなんじゃないでしょうか。


 確かに弁護士は依頼者の弁護を行うのがその職務ですから、どれほど極悪非道な加害者であってもその罪を少しでも減らそうとするためにどんな主張でも行おうとするのはある意味仕方ありません。しかし弁護士も人の子でしょう?今回の山口の事件の加害者の弁護のように突拍子もない論理を使って被告の減刑を求めていることを、人間として、また善良な市民として自分で恥ずかしいと思わないのでしょうか。そういう意味で私は明らかな極悪非道人の罪さえも減らし、場合によっては無罪すら主張しようとする弁護士という職業の意義やその職業倫理観について時々疑問を感じることがあります。いわゆるやり手弁護士や人権派弁護士と呼ばれる方々に私が敬意を示すことができないのはこの辺りに理由があります。


 他人を殺した人間に人権がある?そんなもの自らの欲望のためだけに他人の貴重な人生と人権を奪った奴に人権などあるはずないですよ。ハッキリ言って、他人を殺しておいて自分に人権があると思ってる方がどうかしています。そう思ってる弁護士や裁判官もどうかしています。綺麗事では人権人権と好きなだけ言えます。確かに人権は大切ですし尊重されるべきです、善意で暮らしている一般的な普通な人の場合。


 しかしごくまれなケース、例えば正当防衛の結果相手を殺してしまったような場合は別として、基本的に他人の人権を奪った人間に人権などあることが許される訳がありません。それは自分がもしその被害者の遺族や関係者だったとしたら許すことなどできるはずがないのです。死刑廃止論者は「極悪人とはいえその命を人為的に奪う野蛮で非人道的な行為を行うことは認められるべきではない」などと主張します。しかし被害者の立場から言えば、そんなことどうでも良いのです。単純に自分の大切な人の命を故意に奪った奴がのうのうと生きていることが許せないのです。殺された人には将来も人権もないのに、殺した側には将来も人権も与えられる、そんな理不尽を許したくないだけなのです。


 今回山口の事件で被告側弁護団に加わっている弁護士だって、もし自分の配偶者や子供が今回の事件と同じように殺されたとしても同じ意見を言えるでしょうか?もし自分が被害者の遺族になっても、加害者の人権優先を求めることがその弁護士はできるでしょうか?昨日のニュースでも、匿名ながらその弁護団のうちの一人が「もし自分が本村さんの立場なら間違いなく加害者を殺しに行く。」と発言したと伝えられましたが、それが偽らざる気持ちでしょう。また死刑廃止を主張していた元人権派大物弁護士が自分の妻が殺害された後、死刑賛成論者に意見を変えたことは有名な話で、どれほど普段から「人権、人権」と綺麗事を言っていても、いざ自分が被害者の側に来てみればそんな綺麗事では到底済まないのです。今の裁判では生きている加害者の人権だけが取り上げられていて、殺された被害者やその関係者の人権や生活権、そしてこの殺人鬼がいつか生きて世間にでてきたときの一般大衆の不安などはほとんど加味されていないのです。


 しかし人権派の弁護士などはこうも言います。「じゃあ死刑を望む被害者の遺族などに被告の死刑執行役をやってもらえばいい。そうすれば死刑がいかに非人道的な行為であるかに気付き、死刑を行おうという機運が少なくなるはずだ。」と。しかしそもそも何で被害者の遺族が被告の死刑執行人にならなければならないのでしょうか?何で加害者を被害者の遺族が直接殺す必要があるのでしょうか?遺族としてはただ単に自分の大切な身内を殺した奴に罰として死んでもらいたいだけなのに、何でその執行を自分がやる必要があるのでしょうか?それこそ近代的法治国家の弁護士の意見としてはあまりに飛躍しすぎた論理で、昔の仇討ち制度やハムラビ法典の「目には目を」と同じ思考です。第三者が法によって加害者を裁くのが近代の裁判制度であり、その制度によって飯を食ってるはずの弁護士からこんなめちゃくちゃな論理が発せられるなど、その人権派弁護士の頭のレベル自体を疑います。


 はっきり言って私は死刑存続論者です。これは綺麗事でも何でもなく、繰り返し言いますが他人の貴重な命を一つでも奪った奴には生きる権利や将来を与えるべきではない、という単純な理由によります。死刑が犯罪抑止につながるか、とか死刑制度そのものが非人道的行為である、とかそんなことはどうでもよいと思っています。私がもし本村さんと同じ立場で、もし犯人が無期懲役などで終わるのであれば絶対にヤクザにお金を払ってこいつをいつか殺してもらいます。それくらい犯人に対する怒りと憎悪は収まるものではないのです。殺人鬼がこの世に生きていることを許すことができないのです。


 未成年なら他人を殺しても死刑にはならない、交通事故なら他人が死んでも大きな罪に問えない、気違いなら他人を殺しても罪にすらならない、三人殺さなければ死刑には問えない・・、そんなものどうでもいいです。単純に一人でも他人を殺してしまったら死刑、それではダメなのでしょうか?本当に人権に対する理解が深い人であれば、殺された被害者やその遺族が加害者によって大切な人権をどれほど踏みにじられているかが理解できるはずなのですが・・。なぜかいわゆる人権派の人たちは生き残っている加害者の人権しか重視しないようで、被害者やその家族に平穏な生活権や人権はないと考えているようです。彼らの思考は全くもって不思議、不可解としか言いようがありません。

武富士事件で追徴課税取り消しィ?

2007 - 05/26 [Sat] - 02:16

 先日我々の世界を大きく揺るがす判決がでましたね。武富士のご子息による有名な贈与税節税(脱税?)事件ですよね。実は私はこの事件があったために法の抜け道を探して下らない節税策を考えることなど止めようと深く心に決めたんですよね。まあどういう事かと言えば、たとえ法律の抜け道があったとしてもいずれ税務当局はそれをふさぐ法律や通達を出し、この事件のように時間を遡ってでも租税回避を否認して追徴課税してくるのだから、つまらない節税策など考えたって意味がない、と思うようになったわけです。


 ところが先日の地裁の裁判ではその追徴課税を取り消す、というものだったわけです。何じゃそりゃあ?といいたくなるほど正反対の判断が下ったわけですが、まあまだ地裁の判決ですから今後どう転ぶかは定かではありません。とはいえこの地裁の判断が日本中の多くの税理士の節税策探し魂に再び火を付けたのは確かでしょう。しかしねぇ、やっぱり私はそんな狡い抜け道探しばかりするのって好きじゃないですねぇ。まあこれは性格としか言いようがないのですが、正直そんな法律のあら探しをするのってしんどいんですよね。ギリギリの申告書を提出して、税務署からいつ「アウト」と言われるかをヒヤヒヤしながら日々過ごすなんて何より精神衛生上良くありません。国税側と闘うのも疲れますしねぇ。それに以前にも書きましたが、狡いことを考える人は必ず天罰が下ります。幸せな人生を過ごしたければ狡いことなど考えず真面目に一生懸命努力すべきだ、という私の強い信念もあります。


 今回の事件に関しては「後で法律を整備して過去の行為を罰するのなど狡い」と今回の国税側の行為に対して非難をする税理士も多いでしょう。しかし税理士であればこの武富士事件のスキームの目的はよく分かっているはずです。香港での生活実態がどうであれオランダや香港で色々やっていた根本の目的は贈与税逃れでしょう?それ以外何があるんですか?彼らは海外に住んで一生懸命そのアリバイ工作をしていただけなのです。まあ贈与税逃れのための海外でのアリバイ工作を何年もかけてできるなんて、大金持ちならではですね。一般人には到底できる策ではありません。そのスキームを「賢い」と評価するのか、「狡い」と評価するのか。私は後者です。そんなのハッキリ言って日本で殺人を行ってブラジルや中国に帰ってしまう犯罪者達と同じレベルです。そんな狡い連中の手助けをするために税理士がいるのではないのです。捕まらなければいいのか?法が整備されていなければ何をしても良いのか?それはやはり違う話だと思います。特に今回の事件ではその追徴税額は1,300億円、しかも日本を代表する上場大企業の創業一族が起こした事件なのです。


 この会社はかつては「サラ金」と呼ばれ、私が若い頃はこの手の会社から金を借りた人が金を返せず酷い取り立てにあって自殺者が絶えなかったことから社会問題にまでなったものです。それがいつの間にか一部上場企業になり、日本を代表する業績まで残し、そんな社会的影響力も大きく社会的責任も果たさなければならない企業の一族が、こんなことをして本来国に払わなければならない税金を逃れるなんて全く信じられません。多くの人を自殺に追いやった上に、今回は税金逃れ。だから私は余計にこの事件は許せないのです。


 そもそも社会から儲けさせてもらって金持ちになった人たちには、やはりそれを良い形で社会に還元させる責任や義務があると思うのです。しかしもし今回の事件が万が一最高裁まで行って無罪になったとしても、武井一族の行為は法が許しても神様は許しませんよ、絶対。こんなにも人を泣かせ、狡い行為ばかりしてきた一族には必ず天罰が下ります、そう思わないと我々はやり切れません。人々の恨みというものは時空を超えてやってきますので、余り狡いことで金儲けを考えないことです。世の中やはり悪意に基づいた行為には某かの罰が下らなければならないのです。


 まあ何にしても、この地裁の判決は何を考えているんでしょうね?こんなことがまかり通るのであれば世の中に正義なんかないですよ。狡いことはやった者勝ち、狡いことを考えないお前らがバカなんだ、と言われているようです。法律に書いていなければ何をしても良い、それで人が自殺しようが、税金を払わないでおこうがそんなこと知ったことじゃない。それで良いのでしょうか?


 それにもしこんな法の隙間を突いたやり方がまかり通るのであれば、我々税理士は今後そういう狡いやり方を一生懸命探さなければならなくなるかも知れません。何故なら一円でも得をしたい納税者から我々への税の抜け道指導に関する要望が強くなることが容易に予想されるからです。その顧客からの無理な要望をはねつけ、我々も真っ当なやり方で税務申告をすることがやはり本道なのだ、と私に信じさせてくれたのがこの武富士事件だったです。しかしこれが裁判でひっくり返るようなことがあるのであれば、我々税理士は本当に法の隙間を突いて狡いことばかりを顧客に指導することが求められる非常にダーティーな職業人であることになってしまいます。


 私はそういう意味でこの事件は何としても今回は国税側に勝って欲しいと願っています。今回の判決など「アホか!」の世界で、こんな判決出すからいつも重要事件では地裁はダメだと言われるんです。地裁の裁判官ってホントに何考えてるんでしょうか?こんなことがまかり通る世の中では本当にダメです。ホリエモン事件や村上ファンド事件もそうですが、法の隙間ばかり探して狡いことをした奴が金を儲けてのうのうと暮らしていて、真面目にルールを守っている連中が損をするようなそんな世の中にだけは絶対になって欲しくないと思っています。これは自分の子供達が大きくなったときに日本が住みやすい安全な社会であるためにも切に願っています。

人事評価は結果よりも過程を評価?

2007 - 05/22 [Tue] - 10:51

 世の中では成果主義の弊害でしょうか、最近では仕事を評価する場合には「結果」よりも「過程(プロセス)」を重視するべきとの話が多く聞かれるようになりました。確かに「結果」だけを重視してしまうと自分の「結果」さえ残せば全て良し、ということにもなりかねず、社内では他の社員と協調して良い結果を残していこうという風潮が失われ、社内がギスギスし、結果的に会社全体としての競争力低下につながりかねないということが言われているようです。


 しかし私はそれでもやはり「結果」がもっとも大切であるということを強調したいと思います。私の考えでは何よりも「結果」を重視しなければその過程すら無意味なものになってしまう、ということがあるからなのです。それに一度経営者が社員に対して「結果は重視しない。プロセスがもっとも大切だ。」などと言ってしまえば、社員からは「なるほどこれからは結果で評価されないのか。と言うことはプロセスだけ体裁付けておけば良いということだな。」と理解されてしまうからです。これではどう考えても会社全体の志気が上がるはずがなく、業績は下がる一方でしょう。


 それにプロセス、プロセス、といいますが、そもそも仕事に対して適切な姿勢や態度、そして適切な「プロセス」でもって望めば相当高い確率で良い「結果」につながるはずだ、というのが私の持論です。だからこその「結果」重視なのであって、私の考えには「良い結果」をもたらすためには必ず「良いプロセス」が伴っているはずだ、というものがあるのです。つまり良い結果を評価するということは、すなわち良いプロセスの評価に結果的につながるはず、ということなのです。ですから結果を見なければプロセスの善し悪しなど絶対に判断できないはずなのに、プロセスだけで社員の評価などできるはずがないのです。


 私が以前勤めていた会社を辞めるときにある仲の良い先輩に「やっぱり結果を達成させるために適切なやり方を探していかないと結果なんて達成できませんよ。一生懸命やっても結果が出ない、なんて文句言ってる方たちはやり方が悪いから結果が出ないんですよ。結果を出すためには結果の出るやり方を考えないといつまで経ってもダメですよ。」と言ったら、「それはもりり君、間違ってるよ。」と窘められましたが(笑)、しかし今でも私はこの持論については間違っていると思っていません。なぜならここで妥協してしまうと自分にとっての良い仕事を追求する理由を失いますし、また組織においては正当な人事評価をする理由付けがなくなってしまうからです。


 本人がいくら一生懸命にやっているつもりであっても結果をもたらさないのであればそれはやはり評価するべきではないでしょう。もとよりそれほど一生懸命にやっているのに良い結果が出ないのであれば、その人のやり方は間違っているとしか言いようがありませんし、その人は仕事のやり方を適切に変更すべきなのです。これは以前に書いたことがある税理士試験への取り組み方と全く同じ考えで、一生懸命やると言ってもただがむしゃらにやればいいということとは意味合いは全く違うのです。その求める結果や成果によって手法や考え方は適切に変えていくべきなのです。いわゆるPDCAを自分の業務で実行すべきだったのです。


 しかしそういう工夫も改善も行わずただ「一生懸命やっている」だけでは、それはもはや「一生懸命やっている」のではなく、「ただ単に無駄なことに時間を使っているだけ」ということで評価を下げるべきなのです。例えば経理ソフトで出力された元帳の合計額を算盤で検算する、という作業に一日の大半を費やしている人間を高く評価すべきでしょうか?やってる本人は経理が手書きの時代から元帳の合計を必ず再確認することが習慣になっているものですから何の疑いもなく一生懸命作業を行っていますが、その一生懸命さに対して高い評価を与えるべきでしょうか?否、そんな作業をしている事務員がいれば早急に自らの業務の改善を求め、それでもその作業に固執するようであれば評価を最低ランクにまで下げても良いでしょう。だからただ単に「一生懸命やっている」ことを評価すべきではないのです。「何のために」、「何を目的として」一生懸命しているのか、つまりどのような結果を求めて努力しているのか、そこに評価の最大のポイントがあるわけで、結果を求めない一生懸命さなど正に百害あって一利無し、全く意味がないのです。


 しかしながら結果を評価すればよいといっても、どのような結果をもって「良い結果」と評価すべきでしょうか。以下は私が考える良い評価の一例です。


 ①世の中に受け入れられる「結果」なのか
 ②組織内での協力の上に得られた「結果」なのか
 ③正当な手段を利用して得られた「結果」なのか
 ④合法的な「結果」なのか
 ⑤組織内で喜ばれる「結果」なのか


 注意しなければならないのは絶対に「悪い結果」を高く評価するシステムを世の中に作ってはいけないことです。ここが「成果主義」を良い制度として世間に定着させるためのもっとも大切なポイントであって、「良い結果」も「悪い結果」も一緒くたにして金銭的な損得だけで評価してしまうと絶対にダメなわけです。そういう意味では評価の順番としてはまず「結果を出したかどうか」が最初に来て、その次に必ずその「結果」が良いものであるかどうかが検証された上でその人の成果を最終的に判断するべきなのです。もし「結果」の絶対額を評価するだけであれば、それは必ず狡い人たちが組織の中で幅を利かせる結果に陥るはずです。そうなるともうその組織は崩壊して行くしかありません。これが一般的な成果主義が陥ってしまう最大の罠であるわけです。


 私が今まで述べてきた成果主義の原則はどのような業務や物事を評価するのにも応用できる普遍的なものです。それは勿論会社や組織の中での人事考課に使えますし、人事考課とは離れた部分における個々人の自己実現を行うための方法論にも使えます。その他税理士試験等における受験勉強の進め方の検証にも使えますし、ありとあらゆる場面で良い結果を導くための検証・方法論として応用可能です。


 勿論今まで述べたことが100%正しいとは断言できませんが、ただ最初に述べましたように世の中で「結果」よりも「過程・プロセス」を重視する傾向が広がりつつあることは絶対に間違っていると私は声を大にして言いたいと思います。会社が最終的に利益を追求する使命を負った組織である以上、シビアに、しかし適切に「結果」を追求していく必要があるのは当然であると思います。もし本気で過程だけを重視する会社があるとするならば、私はその会社の経営者の経営理念そのものを疑わざるを得ませんし、その会社に成長が訪れるとは絶対に思えません。

終わってしまったクライスラー

2007 - 05/15 [Tue] - 10:01

 クライスラー、終わりましたね。どんなメーカーでもメーカー以外の別の会社に買収された場合、坂道を転がるように被買収会社は業績が悪化していきますね。なぜかというとメーカーを経験したことがない経営陣がメーカーの経営を行った場合、その経営陣にそのメーカーや製品に対する思い入れがないからなんですね。思い入れがないとどうするかといえば、経営陣が単純にコスト面だけの判断で合理化を行い、結果肝心の「ものを作る」という事へのこだわりが会社や社員から失われてしまうんですね。


 売れるための良い製品を作るためにはどうしてもコストをかけなければならない部分というものがどんな製品にもあるのですが、コストと効率だけを追いかけていってしまうと社員からものを作る事への喜びが消えるのです。ものを作る事へのこだわりがメーカーから失われるとどうなるかといえば、そうなると製品の品質がどんどん低下し、ブランドへの信頼が失われ、そして製品が益々売れなくなり更に経営が悪化する、という流れになるのです。


 ところでメーカー以外の会社、特に金融機関や投資会社がメーカーを買収した場合その会社がどうするのかといえば、彼らは投資した以上の回収をなるべく短期間で行うことが仕事ですから、不採算部門を他社やグループ企業に売却、また事業縮小・廃止を行い本体会社のバランスシートを良く見せる化粧を一生懸命行い、それが完了すると第三者に売却して投資額を回収するのです。


 その過程においては先ほど言ったように買収したメーカーを本質的に良くしてやろうなどという気持ちは全く持ち合わせていません。長期的視野に立って経営を立て直してやろうとする気持ちなどこれっぽっちもないのです。経営合理化といえば聞こえはよいですが、やってることは人員を削減し、開発コストや製品コストを単純に数字面から見て削減し、どんどん事業をスリム化し、実質的に事業とブランドを解体していくだけなのです。そうやってある一つのブランドが複数の企業に切り売りされ、ブランドイメージが統一されることなくブランドが傷ついていくケースは決して少なくないのです。そして一旦切り売りされて傷ついたブランドを再び集約してイメージを立て直すことは並大抵のことではないのです。私がサラリーマンをしていた会社もかつては世界一の企業だったのに、このような過程を経てすっかり切り売りされて傷ついてしまった会社だったのでよく分かるのです。


 同じ自動車メーカーで言えば、ローバーが最近の良い(悪い)例です。ローバーは同じ自動車メーカーのBMWに買収されたものの、BMWにミニとレンジローバーといういいとこだけを取られてしまい、それ以外の部門はただ同然で訳のわからない会社に売却され、ついには終わってしまいました。もっと最近の例で言えば、個人的に三井住友銀行他外資を含めた金融機関に牛耳られてしまった三洋電機がとても気がかりです。確かに昔は住友銀行出身の素晴らしい経営者によって経営が大きく改善した例はアサヒビールなどでも散見できましたが、今回の三洋では外資もいることですし、三洋を解体する可能性の方が高いでしょう。


 メーカーの経営って結構難しいんです。効率や合理的な視点だけじゃ経営できないんですね。先ほども言ったように会社や自社製品に対する思い入れがないとダメなんですね。そうするためには効率や合理性を度外視する必要がある場面も多いのです。効率や合理性だけを追いかけるとメーカーはすぐ外注に走ってしまうんですね。外注に走ると自社から技術や開発力が失われてしまい、気が付くともはやメーカーとしての体をなしてない状態になるんですね。良いものを開発するためにはそれなりにお金と無駄がかかってしまうのです。一時期のソニーがメーカーとしての評価が地に落ちてしまったのも同じ理由なんですね。出井氏が経営を取り仕切っていた頃、彼が欧米流の合理主義や経営スタイルを強烈に指向してメーカーとしての本質をおろそかにしてしまったため、徐々に品質が低下し気が付くとメーカーとしてのソニーはすっかりダメになってしまったんですね。


 投資効率と合理性のみを追求する欧米型金融機関に経営を握られたメーカーには残念ながら明るい未来はありません。メーカーを買収できるのはメーカーの経営をよく分かっているメーカーだけ、というのが私の考えです。メーカーは良い製品を作ってそれを適正な値段で売ることができてこそ、初めて商売が成り立つのです。他人から集めた金を回して回して差益を得るような商売や、よそから仕入れた商品を売って差益を得る商売とは根本的に考え方が違うのです。

本:「人を動かす人になれ!」

2007 - 05/14 [Mon] - 01:00

先日久しぶりにビジネス書を買って読みました。これは本屋でふらっと暇つぶしに読んでいたら面白そうだったので買ってきたものですが、日本電産社長の永守氏が書いた「人を動かす人になれ!」という本です。ちょっと書いてある内容が古かったのでいつ書かれた本か調べたのですが、結局どこにもいつ頃の本であるか書いてありませんでした。多分十年前くらいの本ではないかと思います。


 私は基本的に実用書やビジネス書しか読みません。文学をお好きな方も世の中には非常に多くおられるのですが、私は文学は苦手です。文学を芸術として読むのであれば、私は音楽や絵画の方が性に合います。正直昔から、それこそ子供の頃から、私は文学を読むのが苦手です。しかし実用書やビジネス本は単純に私の数少ない経験を先人の知恵で埋めてくれるものとして結構読むのは好きです。


 私にとって本とは、自分の経験できない、或いはしたことがない事を私に教えてくれるものです。私が日々の生活の中で体験できることなど所詮知れています。しかし本を読めばそれこそ歴史上の先人の経験すら我々が知ることができるのです。私自身の人生経験を膨らませていく上でも、本を読んで多くの方々が経験された貴重な体験とそこから得られた教訓・知識を理解することは大変有益だと思っています。


 さてそこで今回読んだ永守氏の本ですが、とても良い内容でした。写真などでお顔を拝見したり、日本電産という会社の経営手法を見ていると永守氏のことをとてもワンマンで人の意見に耳など傾けない方なのかと思っていましたが(勿論実際にはそうなのかも知れませんが)、本の内容からは意外にもとても人間くさく共感できる部分がありました。


 同じようなビジネス書としてちょっと前にベストセラーになった・・っと、タイトルを調べようと思って本棚を見てみると何とその本がありません。余り役に立たなかったのであっさりと捨ててしまったのでしょうか。我ながら自分の潔さにいささか驚いてしまいましたが(笑)、今インターネットで調べると堀場製作所の堀場雅夫氏が書いた「仕事ができる人、できない人」を挙げることができます。


 非常に話題になった本だったので私も買って読んでみたのですが、正直言ってこちらはとてもつまらない本でした。この本は一言で言えば、堀場製作所の経営者である堀場氏から見た「良い社員」をごくごく主観的に書いている内容に見受けました。従って本の内容はそのタイトルから受ける印象とはちょっと違い、「上司から見て可愛い部下とはどのようなものか」論がつらつらと書いてあり、「上司に気に入られるにはこうすればいいのか」ということを知りたい人たちには良い本かも知れません。従って堀場氏の価値観にそう社員だけが良い社員・仕事のできる社員であり、堀場氏の物差しから外れた社員は悪い社員・仕事のできない社員という分類になっています。


 しかし私のように別に上司にこびへつらって出世する必要がない、いえそういうのが苦手でその世界から逃げてきた者から見れば「ケッ!」の世界で、堀場氏の立場からしか他の人間の評価をすることができない論調にはほとんど共感する部分はありませんでした(だから本が捨てられてしまったのかも・・)。従って余り私にとって役に立つ内容はなく、残念ながら面白い内容ではありませんでした。


 一方永守氏の本は正反対です。あれだけワンマンに見える経営手法を使っている会社の経営者にもかかわらず、その内容からはあらゆるビジネスマンに対する理解と応援に満ちあふれています。例え氏と志や考えが異なる部下がいたとしても、その人が一生懸命努力して成功を手に入れようと頑張っている限りにおいては氏の文章からはその人を認める包容力を感じることができます。この点が堀場氏の考えとは全く異なっている点です。


 勿論氏が言うように「とてもハードな」仕事を要求される日本電産において実際にそのような評価が社員に対して行われるかどうかは私には分かることではありません。しかし部下に理解があるような文章を一見書いておきながら最後まで読むと結局自分から見たお気に入り社員論しか書いてなかった堀場氏の本と比べると、永守氏の本は最後まで読んでもその化けの皮は剥がれることがありませんでした。そういう意味からも、もちろん創業経営者ですから人一倍厳しさを社員に要求しているのでしょうが、しかし氏の包容力の大きさを感じさせる本でした。


 本のテーマはおおざっぱに言えば社会人として立派に、そして一人前になるためにはどのような心構えをするべきかを説いたとても普遍的な内容のものです。だからこそ社会にでてそれほど時間が経っていない方々や、我々のように独立を目指して頑張ろうとしている連中、或いは会社の中で中核をなす地位に立って部下を動かさなければならない人たちにとっても多くの示唆を含んでいます。


 永守氏と堀場氏のこれらの論調の違いは、共に自社業績を急激に伸ばした希有な経営者であるにもかかわらず、彼らのそれぞれのキャリアの違いによる部分が多いのではないかと思います。堀場氏は京大を出て学生時代から事業を手掛けたいわばエリートである一方、永守氏は学歴はずば抜けているわけでなくサラリーマン経験もある非エリートだからでしょう。それゆえ堀場氏の文章はとても上から見た「アホ・カス」調になりがちですが、永守氏の方は時として社員と同じ目線で物を見る暖かさがあります。


 個人的には堀場氏の論調より永守氏の論調に共感することが多く、これからビジネスを立ち上げていこう、独立しよう、サラリーマンとしてバリバリ頑張ってみよう、と考えている人たちには大いに役立つ本ではないかと思っています。興味のある方は是非お読みください。

特待生問題と表舞台にでてきた秘密集金組織高野連

2007 - 05/13 [Sun] - 12:01

 最近高校野球の特待生制度が世間を騒がしています。きっと高野連のお偉方以外の人がほとんどがそう思っていると思うのですが、特待生制度、何が悪いのでしょうか?高校野球を教育の一環と思って試合を見ている人、そしてかかわっている人が一体今の日本にどれほどいるというのでしょうか?


 学校が野球の能力に優れた生徒に対して学費等の免除を行ってセミプロのように活動させたからといって何が悪いのでしょうか?勉強もせずに野球だけする生徒を金で集めることが問題なのでしょうか?或いは学生の分際でプロのように野球を行うことが問題なのでしょうか?


 分かりませんねぇ、私にはその理由が。だってイイじゃないですか、勉強なんかできなくっても野球が超一流であれば。文武両道なんてそんなもの綺麗事以外の何物でもないですよ。勉強もスポーツも超一流なんて、そんな人間が全生徒のうち何%存在しているのでしょうか?普通は勉強が超一流の人はスポーツはからきしダメ、逆にスポーツや芸術などで超一流の人は勉強はそれほどできない、或いはできる必要などないのではないでしょうか。


 結局高野連は何がしたいんですかねぇ。甲子園に出場するチームの部員も勉強ができなければいけないんですかねぇ。私は個人的には勉強が一流の人は確かに凄いと思いますが、スポーツが一流、すなわち都道府県1番とか全国大会レベルとかに行くような人たちも同じくらい凄いことだと思いますね。


 その凄い連中の素質を更に伸ばしてさらなる将来の可能性を広げるために存在している特待生制度は決して悪くないと思いますよ。そういう制度を設けている学校側だってその制度で優秀な生徒を集め、スポーツで校名を世間に宣伝し、更に生徒を集めて儲かる学校にしようとしていくこうと目論んでいるのですが、それに何か問題がありますかねぇ。特待生制度が仮にそのために存在しているのであったとしても、それにつられて生徒がその学校に行くかどうかはそれぞれの生徒や親御さんの自由だし、どうせ私立学校なんだから違法でない限り努力して生徒集めすればいいのではないでしょうか。


 本当に高野連って何今頃バカなこといってるんでしょうね。もし特待生制度ではなくそれに絡む高校野球ゴロが今回の問題の本質であるのであれば、そいつらを駆逐する制度を作ればよいだけのことであって、特待生制度自体に問題を求めていくことが間違っていたのではないでしょうか。


 そもそも当初高野連が主張していたのは特待生制度を利用している野球部員がいる学校は学生野球憲章に違反している、と言ったわけですよね。でも甲子園にでてくるような学校はほとんど特待生制度があるでしょうし、そんなこと素人の我々だって容易に想像できるのに、高野連のお偉方が知らなかったなんてそんなことあるわけないでしょう。そんなことを言えば今までの甲子園の常連校の多くが出場できなくなるなど最初から分かっていたはずなのに、今度は「あまりに影響が大きすぎるので救済措置を講じる」と高野連が言い出すなんてバカじゃねえの、の世界です。


 本当にこの人達は何なんでしょうねぇ。あなた達だって高校野球に寄ってタカって金儲けしている連中じゃないですか。言い換えれば高野連は野球ゴロの総元締めであるくせに、今頃訳のわからない時代ズレした綺麗事言って自分達以外の野球ゴロを駆逐しようとしているわけです。そんなセコイ考えを持つからこんなに世間から叩かれてしまうんですよ。


 高校野球がそんな奇麗なものじゃないなんてもうみんな知ってますよ、だって歴史が長いし、みんな高校くらい行くんですから。ホントに馬鹿馬鹿しい話ですよね、今回の高野連のいう特待生制度問題は。そもそもそんな時代ズレした学生野球憲章の方を直すべきだと思いますし、本来教育と無関係のはずのスポーツを勉強と絡める文部科学省や高野連の考え方自体がおかしいと思いますね。だってサッカーくじだって管轄は文部科学省ですよ、何でって感じしませんか?教育を管理すべき役所が賭博を管理するなんてめちゃくちゃじゃないですか。


 まあスケート連盟といい、高野連といい、アマチュアスポーツの元締めという組織は結構良い金儲けができる組織なんでしょうねぇ。もうちょっとしたら鼻の利くマスコミから高野連のお偉方のスキャンダルが週刊誌をにぎわしそうな予感がしますね。それにおかしいですよねぇ、世間にこんな強大な影響力を持っていて莫大な金が動いているはずの組織(財団法人)の実状が全く公開されないなんて。こういう不透明な組織っていうのが元役人や金持ち連中の体のイイ稼ぎ場所なんでしょうね。


 秘密の稼ぎ場所だったんだからコソッと静かに金儲けを続けていれば良かったのに、何で今回だけこんなに表舞台にでてきたんでしょうねぇ。今回の騒動で高野連のお偉方も墓穴掘っちゃったんじゃないでしょうかねぇ。

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当ブログにお越しいただきありがとうございます、税理士のもりりです。のんびりと、時々辛辣に日々感じたいろいろなことを自由に書いていきたいと思います。

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