税理士もりりのひとりごと

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君が代と日の丸に関する判決

2006 - 09/21 [Thu] - 10:42

 君が代斉唱と日の丸掲揚に関し東京都の先生が通達に従わなかったとして処分された事件で、地裁が「従わない自由がある」として処分不当との判断を示したらしい。確かに世の中には日の丸や君が代が嫌いな人はいると思う。だから嫌いな人は日の丸に敬意を示さず、君が代を斉唱しなくてもよいとは思う。

 しかし日の丸は日本の国旗であり、君が代が国歌であるという事実は誰しも認めるべきではないだろうか。好き嫌いは別にして、いや本当は日本国民である限り本来国旗と国家には愛着と敬意を持つことが当然だと個人的には思っているが、国家に国旗と国歌が存在することは認めてしかるべきだと思う。

 日本では第二次大戦後「リベラル」と表現される左翼的思想が知的であるかのような時代があり、そのころ朝日新聞が広く読まれ、日教組が力を持っていた。その名残で大学を含め学校の先生にはいまだに左翼的思想を強く持つ人たちがいて、それを子供達に押しつけようとしている。

 しかし冷静に考えて欲しい。一体どこの国に国旗や国歌の存在しない国や、国旗や国歌に対して敬意を教えない国がある言うのか。なぜ自分の国歌や国旗、そして国家自体までもを批判することを生徒にまず教える必要があるのか。最初に先生が生徒に教えるべきは、自分がこれから育って住んでいく日本という国を先ず好きになることから教えるべきではないのか。私にはそこのところが根本的に理解できない。そういうことを生徒に教えるべき立場の学校の先生が国旗と国歌に敬意を払わないことが許されるということはどういうことか。

 先生が君が代を歌わず、日の丸に敬意を示さなければ、そんな先生から教えられた生徒がこれらに敬意を示すはずがない。サッカーのワールドカップの試合前の風景を見ても日本の選手ほど国旗と君が代に敬意を示さない連中はいない。国旗や国歌に敬意を示すことなど世界中どこを探しても当たり前のことなのに、日本だけ著しく異なった教育がなされている。その原因は何なのか。学校におけるこうした教育が大きな原因ではないのか。

 国旗や国歌に敬意を示さないということは、自分が育っている日本という国そのものに対する敬意の欠如につながっていく。自分が所属している日本という国に敬意を示すことができない人たちは、ひいては自分や自分の周りの人々に対する敬意も持つことができない。そうなると結局何に対しても敬意を持つことができないのではないだろうか。

 何でもかんでも自由、といえば聞こえがよいが、本当は自由を享受するためにはルールを守ったり義務を果たす必要がある。そういったルールや義務を批判することはとても簡単だが、なぜそのルールや義務が在るのかという根本を考えなければ、自由について語ってはいけないのではないだろうか。

 戦後の日教組の教育や朝日新聞などのリベラル思想は既存に対する批判ばかりで、なぜその既存ができあがってきたのかという本筋が完全に欠落しているように見受ける。本筋のないところに批判を教えたのでは子供の思考は完全に歪んでしまう。自由な思想を教える前にルールや義務を教えること、それが躾であり、きちんとした基礎教育、即ち躾がきちんとなされてこそその正しい思想から派生した正しい自由な発想というものが生まれるのではないだろうか。

 そういった正しい基礎教育、情操教育が欠落しているからこそ、親や他人を殺すことや他人の物を盗んでも平気な子供達が増えていってしまうのではないだろうか。自分の国を大切に思うことは自分や他人を大切にすることに必ずつながる。それを生徒に教えないで国旗と国歌を批判する先生が生徒に教育を行う。それでは自分や他人を大切にする人間が作れるはずがないと思ってしまうのだが。

 私には学校の先生が国歌を歌わず、国旗に敬意を示さないことの方が異常に思えるのだが、今日の判決を見ると私の方が間違っているということなのか。でもホントにこれからの日本はそれでいいのか。

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吉野屋の牛丼再開と食の安全

2006 - 09/18 [Mon] - 08:43

 吉野屋が今日一日だけ限定で牛丼を復活させたそうだ。私も昔はわりと好きで小腹が減ったときに並盛に卵をかけて七味をかけてバクバク食べるのがパターンだった。でもなぜか最近は好みが変わったせいか、あまり食べたいと思わなくなった。勿論一年に数回くらいは食べてもいいとは思っているが、頻繁に欲しいとは今は思わない。

 さてそこでこの吉野屋の牛丼再開がニュースになるときには必ずアメリカ産牛肉の安全性と絡めて話題になっている。アメリカの牛肉が安全かどうかについては正直言ってよくわからない。BSEがどれほどの確率で発生するものなのかわからないし、さらにこれがどれほどの確率で人間にアルツハイマーなどの病気を引き起こしているのかが私自身よく分かっていないからだ。

 しかしよく考えてみれば保存料などをはじめとして世の中には危険な食べ物は牛肉に限らず沢山あるわけで、食の安全にこだわるのであればコンビニに並んでいる食べ物などまず食べることができないだろう。ただ私が牛肉の安全性についてのニュースを見るたびに対比して考えるのが魚についての安全性である。

 牛肉の危険性が伝えられると必ずと言っていいほど魚をはじめとする魚介類の安全性が強調されることが多い。また消費者の多くがそう思っていることも多いだろう。その為世界中でマグロをはじめとする魚介類の需要が急激に高まっているらしい。しかし本当に魚介類は安全なのだろうか。というのも今やどれほどの汚染物が海に流されているか分かったものではないからだ。特に中国をはじめとする工業発展国では想像を絶する汚染のレベルだろうし、それは昭和40年代ごろくらいまでの日本を思い出せば我々にも容易に想像できるはずだからだ。

 そう考えてみると魚も恐ろしいものだ。なぜなら人間が食べる魚は海のなかでは食物連鎖の頂点に近いものばかりで、詰まるところ最も汚染物が蓄積されているということも言えるわけだからだ。特にカレイやヒラメのように海底に住んでいるような近海魚などは生育の環境に関する問題では肉牛の比ではないのではないだろうか。

 日本近海であっても工場の近くや原発の近くなどではどのようなものか信用できないのに、これが東南アジアの近海物の魚介類だったらどうだろうか。しかし実際にはどのようなヒドイ環境で育った魚であるかどうかなど我々は食べるときにこれっぽっちも考えていない。なぜなら我々は魚介類なら安全、という半ば神話にも近い安心感を持っているからだ。しかし水俣病は魚介類が原因で引き起こされた公害病であり、それが近海産や養殖物の海産物で再び起きないと言う保証などどこにもないのである。

 魚はいろんな食べられ方をする。お察しの通り最もやばそうなのは刺身で食べることだろう。化学物質が溜まりまくったヘドロのなかで育っているかも知れないカレイやヒラメの刺身を我々は美味しいと思って食べていたりしないだろうか。東南アジアのエビやカニの養殖などがヒドイ環境で行われているのは比較的広く知られているが、天然物なら安全と思っているのもいつまで続く常識なのか疑わしい気がする。

 吉野屋の牛丼販売再開と食べ物の安全性の問題。なかなか奥が深く恐ろしい話のような気がしている。

竹中大臣の議員辞職

2006 - 09/18 [Mon] - 03:50

 竹中大臣が小泉内閣退陣と時を同じくして議員を辞職すると発言した。それに対して選挙で選ばれた責任を有権者に対して果たしていないと批判する声がある。

 確かにそういった声があることは理解できるが、しかし竹中大臣は元々学者であり小泉氏が首相に選出された時点で民間人から請われて入閣した経緯があるのは誰もが知っていることだろう。だから小泉内閣の退陣と共に政界から身を退くことは多くの人が薄々気が付いていたのではないだろうか。

 個人的には竹中氏はよく頑張ったと思う。小泉内閣の経済政策を牛耳っていたのは竹中大臣だったと言われるほど内閣では重要な役割を担っていた。実行した政策の評価は将来の日本社会に頼るしかないが、いずれにしてもあれだけ様々な政策と改革を実行して二期の任期を満了した、最近では希有な小泉首相とその内閣を支えてきた仕事は一定の評価が与えられるべきだろう。

 だから私は竹中大臣の判断が無責任だとは思わない。むしろ大臣として、また国会議員としてやるべきことをやりきったからこそ辞任するのではないかと思えるほどだ。実際によく考えてみて欲しいのだが、議員としてのキャリアが長いだけで竹中大臣より国政の場で全く実のある仕事をしていない参議院議員など掃いて捨てるほどいるだろう。そういう意味では竹中大臣は短期間ながらとても中身の濃い議員生活を送っていたと言えないだろうか。

 任期は確かに残っているが、本人が議員としての仕事を全うしたと考えているのであれば辞任という選択もあってよいのではないだろうか。一度選挙で当選したからといっても、実際には何もしないで議員報酬だけを6年間のうのうともらい続けている人たちより竹中大臣の判断の方がずっと潔いと思うのだがどうだろうか。

書きにくい不動産の話

2006 - 09/01 [Fri] - 11:54

 批判を承知で書きにくいことを書いてみることにしましょう。現代は差別をしてはいけないという思想が広まっているために以前であれば自分達の身を守るために当たり前のように話されていたことがおおっぴらに言いにくい状況になってきました。ですがやはり基本的な知識として持っておくべきものというものはいつの時代になってもあるのです。

 ちょうど今地震災害のテレビを見ているものですから、土地について書いてみたいと思います。まず世の中には良い土地と悪い土地があります。良い土地は昔から良い土地のままですが、悪い土地は昔からあるものと最近人工的に作られたものと2種類あります。阪神大震災を経験するとその被害の差から良い土地と悪い土地があからさまになりました。

 まず日本のように昔から災害が多い場所にあっては、古来より人々は災害に遭いにくい場所を探して移動してきました。その結果良い土地ほど需要が多く、従って価格も高くなる傾向があるのです。そういう目で見ると住宅地であれば同じ地域のなかで古くから開けた場所で比較的値段が高い土地は安全性も高いと考えて差し支えありません。そういうところにお金のある人や権力者たちが安全を求めて昔から住んできたわけですからまず間違いありません。

 一方悪い土地ですが、一言で言えば地震、水害などのいざというときに安全性の低い土地と言えます。おおざっぱに言えば川や海の埋立地、大きな川の河川沿い、海抜の極端に低い場所、崖地、或いは地質的に見て強固でない地域と言うことになります。また元々人間が住むべき場所ではなかったという意味合いから見てもそしてそういう場所は元々住居用に適していないため需要が低く、従って価格も安いことになります。当然そういう場所には権力者や資産家は住もうとせず、歴史的に見れば経済的に恵まれていない人や身分の低い人たちが住み着いたり、移住させられることとなります。

 阪神大震災の住宅地での被害の結果を見ると、土地の良し悪しは一目瞭然です。昔から一等地と呼ばれていた場所はやはり今でも古い家が建っていて、一方そこから数百メートルも離れていない、今まで比較的良さそうに見えた場所では簡単に家が壊れていたのです。実はよくよく調べてみるとやはりそういう壊れやすい家が建っていた地域は所謂昔の被差別地域であったりして、ある意味納得してしまったりします。で、そういう地域は地質だけでなく、地域の所得水準や治安が昔も今も比較的悪いのです。その理由はご想像にお任せすることにしましょう。

 そういう意味ではこの地震大国である日本にあっては、家を購入する際には、勿論賃借する場合もですが、如何に災害に遭いにくい場所を選ぶか、ということが大変重要になるわけです。実はそれは家族と自分を災害から守るというだけでなく、犯罪からも守ることになるのだ、という点と密接にリンクしていることを理解する必要があるのではないかと思います。

 家を買うということは一生の内でも何回もできることではありません。住んでみて「こんなはずではなかった」と後悔しないためにも、私は不動産の価格だけではなく事前にその地域がどのような場所であるかをよく調べておくことをお勧めしたいと思います。

 なぜ昔からお金持ちはある地域に集中して住んでいるのか、なぜ不動産価格が安い地域は一種独特の雰囲気があるのか、そこには必ず理由があります。不動産購入時や新居を決める際には是非ともよく調査検討してみて下さい。特に購入する際には高い買い物なのですから、広さや便利さよりもどういう素性の場所なのかを十分に調べて下さい。それがひいては自分と家族、特に小さい子供の将来と安全を守ることにつながることがあるのです。

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当ブログにお越しいただきありがとうございます、税理士のもりりです。のんびりと、時々辛辣に日々感じたいろいろなことを自由に書いていきたいと思います。

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