税理士もりりのひとりごと

税理士もりりがぶつぶつと日ごろの出来事についてひとりごとを綴っていきます





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公認会計士vs税理士

2005 - 05/22 [Sun] - 10:29

 しばしばいろいろな場面で公認会計士と税理士が比較される場面に出くわします。「どちらが儲かるか」「どちらが難しい資格か」「どちらが賢いか」「どちらが将来性があるか」・・、等々様々です。では一般的に言われているそのような疑問質問について税理士である私なりに書いてみたいと思います。

 まず「会計士と税理士の試験はどちらが難しいか」。私は会計士の試験を受けたことがありません。なぜなら私は元々税務・会計とはほとんど関わりのないサラリーマンを10年していましたので、その年齢で合格のある可能性がある試験は税理士くらいが上限だったからです。もちろん私がまだ20歳そこそこで、大学の学部も経営学部とかであればきっと会計士を目指していたでしょう。というのも試験ごとに関して言えば自分が頑張れば結果がついてくる話ですので、時間と環境的な余裕が許せば税理士よりよりステータスも高く大きな仕事をする可能性の高い会計士を目指すほうが魅力的ですし、きっと努力すれば合格できたと思うからです。それに税理士の資格は公認会計士であれば付随してきます。

 しかし三十歳過ぎの家族持ちが全てをなげうって会計士を目指すのはあまりにリスクが高すぎます。まず何よりも勉強が大変でしょう。もちろん税理士も大変な試験だったのですが、科目合格制度がある分精神的に楽です。それに三十歳過ぎの未経験者を雇ってくれる監査法人はなかなかないでしょう。私自身が会社で大学の後輩のリクルーターをしていましたので、雇う側の心理はある程度理解しているつもりです。まあ、そんなこんなですから、税理士と会計のどちらが難しくて偉いのか、といえばそれはどう考えても会計士でしょう。それについては全く否定するつもりはありません。

 そして将来性はどうでしょうか。これから会計士や弁護士がどんどん増えていき、これらの業界が過当競争にはいると言われています。事実既に昨年の会計士の二次試験の合格者のうち約四割強の人の就職がなかったと聞きます。ハッキリ言って会計士の試験に受かっても監査法人で監査経験がなければ会計士の資格を持っている意味がありません。そこで溢れた人たちが税理士業界に進出し税理士の職域が減るのではないかと危惧されています。また弁護士もどんどん人数を増やしていっていますので、これからは税務専門弁護士を目指す人が増えるといわれています。

 世の中の流れはそうなっていき税理士業務の競争が増えるのは確実でしょうが、そんなことは先刻承知で、もとより私はのほほんとこの世界でご飯を食べていこうと入ってきたわけではありません。サラリーマン時代の社会経験を生かし、あらゆる意味での顧客本位の真のサービスを確立して勝ち残っていこうと考えてこの世界に入ったわけですから、弁護士や会計士が入ってきても彼らとの競争において勝ち残っていけるように努力するだけです。ですから将来性については今からの時代、医者も含め弁護士、会計士共に努力する人たちだけが勝ち残る時代になるのは間違いありません。それぞれの得意分野でそれぞれが生き残っていく方策を考えるしかありません。会計士と税理士は確かに重複する分野が多いのですが、それでも税理士として生き残っていく部分は残っているはずです。会計士とまともにぶつかる部分での競争は行わず、税理士が最も得意とする分野での生き残りを考えていけば可能性はあるはずです。

 等々考えていきますと、客観的に見て会計士のほうが税理士より上であることは事実なのではないかと個人的には思っていますが、そんなことを云々しても何の意味もありません。他人と自分を比べて他人を羨ましがっていても何も得るものがないのと同様、会計士でない私たち税理士が会計士を羨ましがっても仕方ありません。というものも実は私の仕事の経験では会計士に自分の顧客を取られたこともないですし、会計士の仕事が羨ましいと思ったこともないのです。それより私自身は税理士という仕事に非常に満足していますし、きっとこのまま努力を重ねていけば税理士として成功を収められるという感触を持っています。ですから結論は、私の目標はあくまで税理士として成功することで、そして更に税理士としての成功をベースにもっといろいろな仕事に発展させていきたいなという夢があるため他の資格と比較する必要すらない、というところなのです。

 まあ会計士を目指すも、税理士を目指すも人それぞれで良いと思います。しかしどれほど難しい試験に合格したからといっても、成功が約束されている職業など今の時代にはもはや存在しません。単にその世界で商売をしてもいい、というお墨付きをもらっているに過ぎないのです。そこのところを良く理解すれば自分の資格を他人の資格と比較するという考えを持つこと自体本来ないはずなのではないか、と思うのですが。資格取得はあくまで入り口に過ぎません。問題はそこから先なのです。いろいろな職業でいろいろな方が成功されているのと同様、入り口である資格などハッキリ言ってどれでも良いのです。自分がその世界でやって行けそうな資格であればどれでも成功は絶対に可能です。

日本食ブーム

2005 - 05/18 [Wed] - 11:45

 近年世界中で日本がブームだそうだ。日本のゲームが世界を席巻したことに端を発するといわれているが、アニメ、日本車、サムライなど様々なものに世界の人々の興味が集まっている。ネタが切れたハリウッドでは日本映画にそのネタを求めるようにまでなっている。「日本はダサイ」といわれていた我々の青春時代とはずいぶん時代が変わったものだ。

 これらと平行してほとんど市民権を得たのではないかと思えるほど海外に定着しているのが日本食ではないだろうか。正直言って私は近年海外に出かけていないし、外国人と直接会話することがないので本当に海外で日本食が人気のある料理なのかどうかは定かではない。ただ新聞・テレビなどを見ていると特に欧米において日本食、特に刺身や寿司などが人気だと聞く。私がサラリーマンで働いていた頃は外国人との接触が多かったが、当時日本に来る外国人をもてなす日本料理といえば天ぷらくらいなもので、他の日本料理、とりわけ寿司や刺身などの生ものは嫌がられるので避けていたものだ。そういう意味からいえばつくづく時代は変わったものだと思う。

 しかしよくよく考えてみれば、日本料理が海外の人々から見て興味を大いにそそられるものであることは容易に理解ができるのだ。それは日本が男女共に世界の最長寿国であることが理由として挙げられるだろう。日本人だって今ままでさんざん同じようなことをしてきたのだが、ヨーグルトを食べる人たちが長生きだと聞けばヨーグルトを食べ、黒酢が体によいといえば中国の黒酢を飲む。ところがそのように外国の人たちの長寿食の真似などしなくても、実は日本人は自分たちの日本食を食べていれば皆が世界一の長寿をまっとうできる国民だったのだ。日本人はいまだに相変わらず「外国のどこそこの人たちはこれを食べているから健康だ」などという情報をどこからか持ってきて話題にすることがあるが、実はそんなことする必要は全くなかったわけだ。

 結局ここ二十年近く続いている世界一の長寿国という実績が、世界の人々に日本食に対する興味を抱かせているのだろう。わかりやすくいえば「日本人はなぜ先進国の中においてもあれほど皆長寿なのだろう。きっと日本人の食生活にその秘密があるはずだ。じゃあ我々も日本人が食べている物と同じものを食べれば、きっと日本人のように長生きできるに違いない」という一種の憧れのようなものを海外の人たちは感じるのだろう。確かに日本食は世界から見れば独特なものであろうし、それでいてフランス料理に大きな影響を与えたように見た目にも美しく、そして味も料理法も非常に多彩なバリエーションに富んでいる。私は個人的にはフランス料理と中華料理とそして日本料理が世界の三大料理だと思っているが、日本料理の特徴は何といっても素材と味の豊かさ、そして見た目の美しさと日本人の長寿の元にもなっているヘルシーさだろう。

 そういうことできっと海外で和食ブームが巻き起こっているのだろうが、これは日本人とすれば喜ぶべきことであるし誇るべきことだと思う。冷静に考えれば先ほどのような理由で、海外の人たちから日本食が注目を集めるのは不思議でも何でもないことなのだ。海外でのブームがきっかけとなって日本人自身も和食の食べ物の良さや魅力を再認識し、そしてそこから日本の文化や生活、習慣などの魅力に気が付いてもっと日本を好きになっていけば良いと思う。「ここがヘンだよ日本人」などと日本人はしばしば外国人から見た日本の習慣の違いを自嘲することがあるが、本当はどこの国もそれぞれ異なった文化や習慣を持っているのだから外国人から見て日本の習慣が時として奇異に映るのは当然のことだ。

 私に言わせればアメリカはきっと世界中の人から見ても世界で最も変な国の一つだろうし、中国や北朝鮮の共産国も相当なものだろう。しかしそんな下らないことをあれこれ議論するよりも日本食や日本文化に代表される日本独自の良さを自分たち自身で認識し、それを恥ずかしがらずに誇れるようになれれば日本や日本人は海外から見てもっともっと魅力的に見えるのではないだろうか。日本人はいつも自分たちが海外から軽蔑されているのではないかと疑心暗鬼になっているが、最近の日本ブームが実は海外の人たちから見て多くの魅力を備えているのではないかということに日本人自身が気付くきっかけになってくれればいいと思う。

電子申告について

2005 - 05/18 [Wed] - 01:18

電子申告が導入されてから丸一年が経過した。いろいろと税理士会などは電子申告の普及に力を入れているのが手に取るようにわかるが、現在のシステムと社会環境では普及するのはなかなか難しいだろう。税理士会が電子申告の普及に力を入れている背景にはいくつかの理由が考えられる。それは一つには相当なコストをかけて国税サイドで開発したシステムであるので税理士としてもそのシステムの普及に力を貸すのは当然であるという観点。もう一つは、これは税理士会が各税理士を説得するために使われる理由であるが、税理士の独占業務である税務代理の一環として電子申告普及に取り組まなければ、やがて他業種からの参入圧力が加わり電子申告もろとも規制緩和による税理士の独占業務がなくなる恐れがあるというものである。

 私は実のところ電子申告をしたことがない。ないのでこのシステムのことをとやかく言う資格はないかも知れないが、しかしながら比較的IT導入に関して積極的である私ですら導入しようという魅力を感じないところにこのシステムが普及しない最大の理由があると思われる。何しろ一見してめんどくさそうに思える。確かに申告内容がデータとして転送できるのは便利だろう、特にそれを受け付ける税務署側から見れば。しかしそれを開始するまでの手続きがもうめんどくさいとしかいいようがない。開始の届出書、住基カードの取得、カードリーダの購入、ソフトの購入・・、はっきり言ってお金と手間のかかることばかり。何しろ今の申告手続きで我々も納税者も全く困っていないのにこれらの手間と金をかけて電子申告に乗り換えるメリットが全く感じられない。しかも私の事務所は税務署のすぐそばだから電子申告を行うヒマが有れば窓口に持っていった方が早い。

 それから普及しない致命的な理由は納税者が紙の申告書を必要としているという点だろう。我々税理士はもし電子申告で全てのことが足りるので有れば電子申告自体は悪くない制度だと思っている。しかし問題なのは我々のお客様であり、しかも申告を行う主体である納税者の側にデータのやり取りだけで申告手続きをすまされてしまっては困る事情があることだ。それは受付印が押された申告書を銀行が納税者に対して要求していることだ。銀行が融資先である各納税者に対し税務署の受付印が押された申告書の提出を要求する限り、あるいは受付を証明できる申告データを銀行に転送できるようなシステムができない限り結局は紙による申告手続き、あるいは紙に出力した申告書は必ず必要となってしまうのだ。そのためせっかく電子申告でデータを送信しても、紙にもう一度その内容を出力し受付印に代わる何かを添付しなければならなくなるため手間はかえって増えてしまう。

 それから他業種による税理士独占業務への進出の問題であるが、正直言ってそんなことはどうでもいいと考えている。大体既得権を必死で守ろうとする業界の考え方自体がおかしいとしかいいようがないし、そもそもそれほど簡単に税理士業務ができると思っているのであれば誰でもやってみればいい、と私は考えている。やってみればわかると思うが、税理士業は端から見ているほど簡単な仕事ではない。簡単なのは記帳代行部分だけの話だ。税理士の本業である税務サービスについていえば、我々は毎年変わる税法に対応しなければならないし、それに伴ってどんどん税法の解釈や手続き、そして顧客からの相談内容などはどんどん複雑化している。それについていくのに我々税理士自身相当な努力を行っているのに、そんなにおいそれと基礎知識を持ち合わせていない方々に参入できるとは思えない。

 しかも申告代理業務はミスをした場合の賠償責任を伴っている。規制緩和をした場合に金儲けだけが目当ての「白タク」感覚の申告代理業者がミスを連発し納税者からの信頼を大きく損ね、そして賠償問題を頻発させる恐れがある。そう考えればたかが電子申告に取り組むか取り組まないか程度の問題で税理士の独占業務問題云々が議論される余地などありえるはずがない。それよりも何よりも最も申告の現場を知っている我々税理士が使えないと思っているシステムなど誰が使っても使えないのは明らかだ。だから心配しなくても誰も新規参入などしてこない。

 電子申告を普及させるという政府の方向性は間違っていないのかも知れない。しかし世の中には電子化に向いているものと向いていないものがあるのも事実だ。前者は単純なデータの検索や送信であって、後者は二次利用が予想されるような内容のものだ。前者の例としては辞書や、法令集、あるいは電子メールのようなたぐいのもので、検索機能が高く、即時性があり紙に出力する必要がまずないものに向いている。後者の例としてはファイルや本、新聞などを挙げることができる。これらはデータとして保存すれば確かに場所をとらないのであるが、保存したデータを複数見比べることが困難であり、紙のように書き込むこともできないし、ページを飛ばすこともできないし、何より持ち運びが不便である。上司から「あのときのこれこれのファイルを見せてくれ」といわれて電子ファイリングデータから当該データを検索しても、画面でしか見ることができない。しかも一ページずつしか見ることはできない。効率よく複数ページを見たり、別件と見比べたい場合は結局紙に出力しなければならない。しかも電子ファイリングの趣旨からいえば、その出力したものは最終的に破棄しなければ意味がない。これでは何のために電子ファイリングをしているのかわからない。結局保管スペースだけがメリットになりかねない。

 そういう意味でいえば、現時点での税務申告を取り巻く環境においては電子申告システムだけが先走りしすぎている嫌いがある。電子申告を行うメリットが納税者や銀行に理解されない限り本格的な税務申告の場ではまだまだ普及は難しいだろう。しかし例えばサラリーマンが確定申告をするような場合においてはその後の申告書をどこにも提出しないだろうから電子申告は比較的手頃に感じるだろう。それでもシステムを利用するためには現行では本人確認のための手間がやっかいであることには違いがない。結局手軽に電子申告ができるようになるためには国民全員と全ての法人が電子化されたIDカードのようなものを所有することを義務づけられる必要があるのかも知れない。しかしそれは現実問題としてはまだまだ先になるだろう。やはり電子申告が普及するにはまだまだ時間がかかる気がする。

交際費課税制度の是非

2005 - 05/16 [Mon] - 12:54

 毎年この時期の税制改正の時期になりますと必ずいくつかの団体から交際費課税についての緩和、あるいは廃止についての要望が寄せられています。要望する側の理由は大抵「交際費課税を行うことにより交際費の支出が抑制されてしまい結果として景気向上に役立たない」あるいは「必要不可欠な最低限の交際費は必ず存在しているのでこれらについては全額損金算入を認めてほしい」というものです。

 確かに交際費課税については大企業は全額損金不算入、中小企業については400万円までの支出に関して10%の損金不算入ということですから、支出している企業から見れば「なぜこんなことを?」と思うのかも知れません。またそこそこの企業に勤めた経験がない税理士などは納税者への正義感からこの制度の理不尽さを感じるのかもしれません。

 しかし私の目から見れば交際費課税をもし仮に止めてしまったとすれば、そんなものみんな好き放題にお金を使うに決まっています。それも支払った法人の損金に落とせるわけですから架空の領収書でも何でも作ってジャンジャン自分たちのために必ず使います。極端な話給与や役員報酬には所得税がかかりますが、これらの支給額を少し減らしてその分を法人からの交際費として自分の懐に入れてしまえば所得税を簡単にちょろまかすことができます。今の制度においても法人が支払う交際費のうち経営者や社員のために使われているものだって結構あるのですから、この交際費課税制度がなくなってしまえばしたい放題になるのは目に見えています。もし現実的に交際費課税を止めてしまったら、その数年内に交際費による恩恵を受けることができない人たちから「これでは課税が不公平だ」とすぐに文句が出ることは確実でしょう。

 それからもう一つ。こちらは中小企業ではほとんど関係がない話なのでほとんどの税理士は気にもしたことがないと思いますが、大企業の交際費が全額損金不算入なのは何故だか分かりますか。そりゃあ表向きには何でもかんでも法人の損金算入を認めていたら、どうしても不要なものにまでお金を使いそれが損金に落ちることになってしまうので、そういったことを抑制する目的で交際費については全額損金不算入とする、ということになっています。これはバブル経済のころを思い出してみれば容易に理解できると思います。

 しかしあまり表立って言われていませんが、そんな理由よりも大企業の社員であれば誰でも理解できる理由があります。特に営業や調達・購買関係を経験したことがある人であれば簡単に理解できる理由があります。それは詰まるところ盆暮を含めさまざまな場面で利用される贈り物についてです。「なーんだ、そんなの誰だってもらってるじゃない」と思うでしょうが、誰でも知ってる会社の社員や役員で、そういう贈り物やさまざまな経済的利益を受ける立場の人たちが受け取る総額は相当なものです。金額にして数万、十数万円などと言う端金ではありません。

 だって考えてもみて下さい、役所でなければ贈収賄など関係ないのです。例えば営業サイドから見てある一件のビジネスが成約すれば1億円の利益が見込める大事業があるとしましょう。そのとき営業側はどうするでしょうか。「こちらの商品やプランの内容が先方にとってメリットがあると分かってくれれば絶対に成約できる」などと言うような正攻法など絶対に考えません。そんなことすればみすみす競争相手に仕事を取られるに決まっています。じゃあどうするのかと言えば、そのビジネスの成約の権限を持っている購入側の担当者に接待・贈り物攻勢をかけるに決まっています。極端な話そのために使う金が1千万円であったとしても良いのです。元々1億円の儲け話ですから、1千万円を担当者に渡してもそれで成約ができるのであれば9千万円儲かるのです。それで十分オーケーなのです。大きなビジネスであればあるほど当然にそういう方法で営業を行います。

 ではその1千万円に関する課税はどうなるのでしょうか?普通に考えれば貰った側に所得税を課税するのが筋でしょう。しかしそんなことが現実のビジネスにおいて可能でしょうか?「A部長、申し訳ないのですが先日私どもがお渡しした100万円の商品券についてきちんと確定申告しておいてくださいね。」などと無粋なことを重要な得意先に言えるでしょうか。あるいは「弊社が支払った1千万円の交際費、あれは全て得意先のB部長に支払ったものです。ですからB部長に税務調査に行って税金を取ってきてください」などと税務署や国税局に言えるでしょうか。そんなこと言えるはずがありませんし、もとよりそんなお金はできれば表向きにせずそおーっとしておきたいと考えるのが当然の人情です。

 そうであればどうするか。課税側もそのあたりはよく分かってくれています。結局交際費課税の本質はどういうことかと言えば、「わかった、あんた達が払った交際費については、いろいろと事情もあるだろうから相手がいくら貰ったとしても相手から税金を取るような無粋な真似はしないよ。手続きもめんどくさいしね。でも全く税金が取れないんじゃあこっちも困るんで、代わりに法人が支払った交際費は全額損金不算入にして支払った側から法人税をいただくよ。そのほうが税金も高く取れるし、その辺で手を打たない?」と言うことなのです。まあそういう事情であれば大企業も文句を言える義理ではありませんから、従わざるを得ません。大企業の偉い人になればなるほど取引先から相当な経済的利益を受けていますし、同時にそれが持つ力について理解していますので、交際費課税については意見があるはずありません。

 まあ結局交際費課税の本質はこういうところにあると理解しているほうが分かりやすいと思いますし、現実の世の中と言うものは概してこう言うもので、そんなに杓子定規に割り切れるものではありません。世の中で動いている金の大多数は全企業の数%といわれる大企業が動かしているものですし、その潤滑な活動を阻害させるようなことは国策としてできるはずがありません。ですからこういう制度が妥協策としてできているので決して景気を抑制させるためや最低限の交際費ですら使わせないためにこの制度ができているわけではないのです。

 税理士とか納税者の団体はすぐに課税当局が行うことについて批判的な目で見ますが、制度の上っ面だけを見ていてはだめです。取る側・取られる側、あるいはごまかせる側・ごまかせない側などさまざまな側面からその制度を冷静に見つめ、「あ、この制度は仕方がないな」と思えるものについては税理士はむしろ適切に理解を示し、その背景について納税者に説明し理解させることは必要なのではないかと思います。そうでないと国が作る良い制度も悪い制度も全く適切に評価することができなくなってしまうのではないでしょうか。

小泉首相の靖国神社参拝発言

2005 - 05/16 [Mon] - 11:33

 今日のニュースで小泉首相が「国民が先人の努力と苦労に対して敬意を払うのは当然であり、しかも日本は既に反省と謝罪を十分に重ねてきており、二度と戦争を起こさないという決意を表明するために靖国神社に適切な時期に参拝を行う。それについて他国から干渉される必要はない。」といった趣旨の発言を行っていました。

 この発言については私は大賛成です。良く言ってくれた、とすら思います。この小泉首相の発言はまさに正論です。しかし日本のマスコミや多くの国民は「また中国や韓国から非難を受けるのではないか」とすぐに外国からの反論を気にして、小泉首相の発言は少し行きすぎなのではないかと批判的になります。

 何故日本人はこうも自虐的なのでしょうか。何故いつも外国から批判されることを恐れるのでしょうか。こういった首相発言があるたびにニュースキャスター達はすぐに海外における非難をまず放送し、そして自国の首相の発言に国際感覚がないと批判します。何故なんでしょうか。何故日本や日本国民は海外の日本批判にいちいち敏感に反応するのでしょうか。何故ニュースキャスターは自国の首相の発言の正当性を強調せず、元戦争相手の中国や韓国の非難をもっともらしく取り上げるのでしょうか。私にはニュースキャスターやその視聴者がこういった首相発言があるたびに海外から非難されることを自ら楽しんでいるのではないかと感じるくらいです。

 よく考えてください。小泉首相の発言は間違っていますか?そして中国が「日本は中国国民に対し謝罪も補償もしていないのに、また首相がこのような発言をしており全く過去の反省が感じられない」と非難してくると、その中国側のコメントが正しいと思いますか?もし思うとしたら何故思うのですか?本当によく考えてください。ごろつきの脅しをいちいち真に受けていたら神経が持ちませんよ。真実はどこにあるのですか。日本は本当に謝罪や反省や補償をしていないのでしょうか?私は戦後60年のさまざまな国際貢献や皇族や政治家の発言を通じて、あるいは小中学校の教育を通じて十分に反省と補償と謝罪は行われていると感じます。中国をはじめとする東・東南アジア地域の発展は日本のODAや民間の技術・資本移転なしには到底ここまで進んでいたとは思えません。

 日本人はなぜ海外から批判されるとすぐにシュンとなるのでしょう。何故自分達が行っていることを自信を持って説明し、理不尽なことに対して反論できないのでしょう。いえ反論するまでも、こんな批判など無視すればいいのに何故無視しないのでしょう。海外からの自国の批判にいちいち反応して落ち込んだり、自国の政治家を批判する国民などおそらく日本人だけでしょう。もう私の目から見れば、日本人の自虐性はほとんど病気です。もしこれがアメリカだったら中国からの非難など放送しないでしょうし、仮に放送したとしても誰も見ないような深夜のニュースで流すでしょう。またもしそのようなニュースを一般国民が見ればシュンとなるどころか一斉に中国非難、中国製品の非買運動に発展することでしょう。

 小泉首相の発言を素直に理解してください。素直に受け止めてください。どこに問題がありますか。全て正論ではないですか。何故日本人が先の戦争で国のために戦って死んだ方々に対して哀悼の意を表し、そこで戦争を行ってはならないことを再確認する行為が他国から批判されなければならないのでしょう。A級戦犯が祭られていることが気に入らないと中国や韓国は言いますが、それがどうだと言うのでしょうか。普通に考えてください、我々が仮に靖国神社に参拝するときにいちいちA級戦犯の魂を祭るためだという意識がありますか?普通は純粋に戦没者全体の慰霊に訪れていると考えませんか?

 なのに何故自国民である我々が小泉首相の発言を信じないで、外国からの批判をすぐに受け入れてしまうのですか。もっと日本人は自分達が行っていることを肯定的に捉えましょう。外国や他人の批判にいちいち過剰反応するのは止めましょう。もっと自分の国や自分たち自身、あるいは自分達が行っている行為について自信を持ち、そして堂々と正しいと言える自信を持ちましょう。いわれのない外からの批判にいちいち反応する必要などありません。それこそ全くの内政干渉です。無視するか「そのような批判を受けるにあたらない」とはっきりと表明しましょう。もっと日本人は自分達が行っていることについて正々堂々と自信を持ちましょう。そのことをしっかりと教えず反省ばかり教えようとした戦後日教組教育の最大の欠点が今の若者の自信のなさやひねくれた人生観を作ってしまったのではないかと感じています。

憲法九条改正と日本の平和維持

2005 - 05/15 [Sun] - 01:16

 最近も中国や韓国での反日運動や領土問題、北朝鮮との拉致問題やミサイル、核開発問題など日本の平和を脅かす問題が立て続けに起きています。これらに似たようなことは今までも何度となく発生しては沈静化し、そうやって現在へ至っています。

 これらの問題と関連しているのでしょうか、最近憲法改正論、特に憲法九条を見直すべきではないかとの機運が高まっているように感じます。しかし反対する考えを持っている人たちも必ずいて、彼らの理由は必ず「右翼化につながりまた侵略戦争を起こしかねない」とか「平和国家という素晴らしい理念がなくなる」といったものにほぼ固定されます。

 結論から言えば私は個人的には憲法改正に賛成です。確かに戦争放棄をうたって軍隊を持たないと宣言する日本国憲法の第九条は素晴らしいものです。しかしそもそもの成り立ちは第二次戦争後に占領軍によって作成された原案に基づいているもので、明らかに当時の日本を骨なしにして将来にわたって戦争を起こさせないようにする意図が見え隠れします。

 確かに軍隊は持たないほうがいい、戦争はしないほうがいい、それは当たり前のことです。特に旧社会党系、あるいは共産系の思想に強い影響を受けている人たちや、朝日新聞の論調などはリベラルで、必ずこういった論議が出ると必ず反対です。しかしそういう意見を言う人にこそ現実を冷静に判断してほしいと私は思っています。ジョンレノンの「イマジン」のように皆が争わず、平和に暮らせる世界が実現すれば確かに理想でしょう。しかし現実はどうでしょうか?

 分かりやすい話からしていけばまず個人レベルの話で考えて見ましょう。私達は自分が関わる全ての人間が好きでしょうか。誰とも争ったことがないでしょうか。仮に奇麗事で、あるいは相当な精神修行を積んだ人や宗教家の中で「私には嫌いな人も意見が対立して気分が悪くなる人も居ない」と発言する人がいるとしても、そういう人ですら例えば恋人関係や結婚という自分の生活の根源に関わるような出来事に直面すれば相手が誰でもいいとは言わないはずです。どうしても生理的に合わない相手と恋人関係や結婚できるはずがありません。つまりそんな奇麗事を言う人ですら、実際自分の身に降りかかってきた場合には見た目や雰囲気、相性で他人の好き嫌いは判断しているはずです。同じような理由で生まれてからこの方一度も自分以外の人間とケンカをしたことがない、さらには世の中でどうしても許せないタイプの人間など一人もいない人など、絶対に存在しません。

 こんな狭い個人の人間関係ですら好き嫌いや意見の対立を原因としていざこざが発生するのです。つまり人間は誰でも他人に対し好き嫌いがあり、何らかの争いごとを持っているものなのです。しかもそのトラブルの全てを話し合いで解決することができないからこそ世界中のどの国でも警察や裁判所や弁護士がそのトラブル解決のために存在しているのです。個人間がそんな状況であるのに、国家間での争いごとが話し合いなどという甘っちょろい手段で片付くはずがありません。もとより個人間の争いごとより遥かに大きな利害と思惑に基づく対立が、穏やかな話し合いで調整できるはずなどありません。それほど思想も宗教も歴史も民族も人種も異なる国家間同士で平和を維持することは並大抵のことではないのです。

 それでも改憲反対論者はきっとこう言うでしょう。「戦後から今までこの憲法九条で平和を維持していたのに、なぜわざわざ諸外国から誤解を招くような改憲をする必要があるのか。」と。では訊きますが、その平和は日本が軍隊を持っていなかったから維持されたのでしょうか?憲法九条があるから外国が攻めてこなかったのでしょうか?答えは全てノーです。答えはアメリカ軍が日本に基地をおき、事実上がっちりと日本の守りを固めて常に近隣諸国に無言の圧力をかけ続けてきたからこそ、日本が諸外国から攻められることがなかっただけなのです。しかもたまたま日本を第二次戦争後守ってくれたアメリカがいまだに世界唯一の超大国として生き残っているから、その実質支配下である日本は経済や国防面で多大な恩恵を受けてこれただけなのです。つまり日本の力で日本の平和が維持されてきたなどという意見は全く間違った思い込みなのです。

 そういう経緯があるからこそ日本はこのたびのイラク戦争に自衛隊を派遣せざるを得なかったのです。このイラク派兵問題についていえば、日本にはもとより反対などという選択肢は存在しないのです。アメリカに戦後60年も守ってもらっておいて、そのアメリカが9.11以後のテロとの戦いからの流れでイラクと戦争すると決定したた結果、その戦いに日本が力を貸さないなどありえるはずがないのです。またこの派兵は将来の日本の国益を考慮した場合に大きな影響があったのです。それはあの当時から見て将来起こりうるであろう中国、韓国、北朝鮮との交渉を有利に運ぶため、あるいは万が一の紛争を解決するためにはアメリカの力が今の日本にはどうしても必要であり、日本はイラクに自衛隊を派遣してアメリカと緊密な関係を維持しなければならなかったからです。

 私は個人的にイラク戦争には反対です。あれは明らかにアメリカのエゴ以外の何者でもありません。しかしそんな理不尽な戦争であったとしても日本はそれに参加しなければならないのです。その理由は上記のとおりです。しかもこれからもこのような日本や世界から見て理不尽な紛争に日本が巻き込まれてしまうことは避けられないでしょう。ではアメリカが引き起こすであろう紛争にも巻き込まれず、しかも近隣諸国からの圧力や侵略を未然に防ぐためにはどうすればよいのでしょうか。現状の憲法九条を守っているだけでそれは達成できるでしょうか。

 結局答えは日本の国防は日本が行うしかないという結論に達するのです。現実問題として自国の平和維持のための国防軍を持っていない国など世界中のどこにも存在していないのです。あのスイスですら軍隊を持っているからこそ永世中立を維持することができているのです。日本も諸外国との戦争を将来絶対に行わないで永世中立を保つためには自国の軍隊で自国を守り、他国の紛争に巻き込まれないような体制作りをしなければならないのです。そして近隣諸国とのバランスを絶妙に取っていく必要があるのです。日本が自分から戦いを仕掛けてはなりませんが、攻めてこられたときには攻め返す力が必要なのです。

 結局国家の平和問題は奇麗事や理念だけで維持できるものではありません。現実的に他国の軍隊に守ってもらっているおかげで見かけ上の非武装平和が保たれている現実があるにもかかわらず、他国の紛争には参加せず、自国の防衛も自分たちの手で行わない、などということがこれから先も続けて行けるはずがありません。憲法九条を見直して、日本の国防は徐々に日本自身で行っていかねばならないというのは遅かれ早かれ決断すべきことだったのです。それを右翼化や侵略戦争と結びつけて国内世論で論じるなど全くばかげており、論点のすり替えと現実逃避以外の何ものでもありません。

 憲法九条改正はあくまで日本と周辺諸国との間で無用の争いを避け、戦争を回避させ、平和を維持するために行うのです。これは論点のすり替えでもなんでもなく、突き詰めて行けば実際にそう結論を出す以外にありません。そうしないのであれば日本はいつまで経ってもアメリカの顔色を伺い、アメリカが巻き起こすであろう国際紛争に常に巻き込まれ、時として日本自国の利害と正反対の行動を取らざるを得なくなります。それでもよければ現状維持で、それがイヤでスイスのように真の意味でいかなる戦争、紛争からも距離を置いて平和国家を貫きたいのであれば自国による防衛軍を配備するしか選択はありません。

 どう考えるかは個々のお考えによるとは思いますが、世界が話し合いだけで平和になるという非現実に思考を逃避させることだけはやめなければなりません。日本の現実を直視し、その現実に適切に対応することが最も大切です

税務調査

2005 - 05/10 [Tue] - 12:20

 今月は決算も沢山あるっていうのに、調査もまた多いんですよ。まあ税務署もそろそろ異動を意識した時期になってきて数合わせに調査件数が増えるっていうのはあると思うんですけど、私がかかわる顧問先だけで今月は4件!今日も一件やってきました。明日も一件、来週も一件、再来週も一件。おい、どうなってんだ、て気持ちはあるんですが、まあこれには理由があるわけですよ。

 実は私の事務所の前任者(彼は税理士ではない)が税務調査においては全く税務署に反論しない人でして、それで結構顧問先さんからも不評だったんですよね。「あいつはいったいどっちの味方やねん。わしらはあんたとこに金払ろてるお客と違うんか!」と怒られたことも駆け出しのころはしばしば。まだこの人は事務所にいるのですが、結局この人の担当している顧問先に行けば何か出るんじゃないか、っていう情報をどうやら経験的に税務署は持っているようなんですね。ですからこの時期のように税務署側が調査のノルマ件数をこなすためには手っ取り早く結果を出してくれて、しかもこの時期であっても調査を断らない前任者担当の顧問先を狙い撃ちしてやってくるんですよね。これはもう毎年のこと。いつもこの時期になれば前任者の担当顧問先を狙って4月ごろから税務署は電話をしてきますが、それにしても今年は特に多かったですね。なんといっても私が絡む顧問先以外にもあと二つありますからね。全部で6件、しかも全部その前任者の担当先です。ほんとに税務署になめられたものです(笑)。

 まあとはいえ私も税務署と意味なく争うことをするつもりはありません。もちろん前任者ほど何でもかんでも無反論で調査結果を受け入れ、顧問先を説得する、などという恥ずかしいことはしませんが、かといってお上を敵だと思っているわけでもありません。何といっても最近の税務署側の態度は普段も調査のときも昔の話と比べると非常に紳士になりました。それと私自身税理士になってから税務署の方々と仕事でも懇親会等でも接することがとても多くなったのですが、資格を取る前と取った後では明らかに税務署側の扱いが違いました。

 まあ私がその税務署管轄の最も申告件数の多い事務所に所属している税理士だから、ということもあるのかも知れませんが、紳士的に接してきてくれる相手に対してこちらもケンカ腰で対応する必要はありません。もちろんどう考えてもおかしな指摘を調査時にしてくればこちらも論理的に「違うんではないですか?」とは言いますが、某若手税理士任意団体やアカ系団体のように「何でもかんでも税務署反対!調査反対!」などという姿勢でケンカを真っ向から売るようなことはしません。

 私も資格を取得した当初は「社会的正義感に燃えて納税者の権利を守らねば!」などといっぱしのことを考えておりましたが、先ほどのように税務署側の扱いも変わり、向こうも私が調査に行ったときにあまり無茶なことを言わなくなってきたものですから、私自身考えを相当変えるに至りました。

 結局のところ私が税理士業務を日々行うにあたり最も大切にすべきと気がついたことは、「納税者にとって得であるかどうか」ということが業務の判断基準であるべきということです。調査のときに税務署に対して法律論をぶちかまし納税者保護の名の下に税務署と戦う税理士も世の中には存在するでしょう。あるいは税理士は法律家であるべき、との高い理念の下条文研究、条文解釈を学者のように探求し、それを顧問先への税務にも頑なに応用しようという税理士もいるでしょう。しかし私個人はそんなことが果たして顧問先の利益になっているのか、ということに大きな疑問を感じるわけです。

 戦う税理士もいいでしょう。税務署をギャフンといわせることに命を懸けることもいいでしょう。しかしそんなことをすれば税務署だってお上の意地を持っていますから何が何でも絶対にその戦う税理士をギャフンと言わせてやろうと本気になってきます。調査の際に税理士が法律論で税務署に対抗するならば、税務署はどんな些細な法律論的なミスも許してくれなくなるでしょう。しかしそんなことに付き合わされる顧問先はたまったものではありません。顧問先の本心は「できれば調査の際に追加の税金は払いたくないが、それよりも調査が長引くほうが仕事にならないのでもっとイヤ。」なのです。

 戦う税理士がもし一度税務署に勝ったとしましょう。そうすると必ずしばらくするとまた調査に来ます。調査を拒否すれば強権を発動します。何日でも調査をします。顧問先は仕事になりません。そして税務署が意地になって追加を見つけた場合、戦う税理士は不当調査だと不服審判所や裁判所に訴えようと顧問先にけしかけます。しかしそんなこと顧問先にとってはどうでもいいのです。顧問先としては今後のこともあるので税務署に目をつけられたくないし、仕事もしないとお金が稼げないし、そんな戦う税理士の面子やエゴに付き合うための暇も金もかけたくないのです。そう考えると結局戦う税理士は全く顧問先の利益になっていないケースも多いわけです。

 世の中にはいろいろなタイプの税理士がいるでしょう。争って得をすると考える税理士もいるでしょう。しかし私は違います。戦うこと、争うことが顧問先の得になるのであれば喜んで戦いますが、そうでないのであれば無用な争いはしません。むしろ穏やかに税務署との関係を保っているほうが何かとメリットがありますし、些細なことであれば許してくれることも増えます。人間誰だってミスはあります。顧問先がミスをすることもあるでしょうし、こちらがミスをしている場合だってあるでしょう。そういう場合、もし内容がたいしたものでなければできれば許してほしいものです。誰だってケンカを売ってくる相手より、穏やかに接してくる相手に対して良くしてあげようと考えるのは人情であり、税務署とて同じです。

 ほかの税理士の中には「そんなこと言ってるからいつまで経っても税理士は税務署になめられるんだ。」という方も多いでしょうが、我々だって商売で税理士業をやっているのです。勘違いしてもらっては困りますが、税理士が最も喜ばせるべきは我々にお金を払ってくれている顧問先であり、我々にお金を一銭も払ってくれない税務署ではないということが私の根幹にあるのです。なぜ税務署との関係を良好に保つのか、という理由はあくまで顧問先にできるだけ不利益を蒙らせないためにそうするだけであって、税務署を利するために行うのではありません。そのためには交渉術や会話、それから当然ながら専門である税法を正確にそして豊富に身に付けておく必要があります。

 我々税理士の仕事はあくまで顧問先の得になるためにあるのであって、そのために対税務署との関係や我々の専門知識が生かされなければならないということは、これから税理士として生き残っていくためには非常に大切な考え方ではないかと私は思っています。我々税理士も所詮サービス業であり、そのサービス業として成功するためにはどうあるべきか、と考えていけばそういう結論に帰結するのではないでしょうか。争ったり理論を振りかざすだけの偉い税理士先生では今から大変なのではないでしょうか。


JR西日本の脱線事故(3)

2005 - 05/09 [Mon] - 10:53

 まあそれにしても先日の脱線事故に端を発したJR西日本叩き、凄いです。事故列車に乗り合わせた乗務員が救助活動をせずに出社していたことについてはボロクソですし、挙句の果てには乗務員がボーリングをしていたことまで叩かれる始末です。

 確かにこれほどの大惨事でしたからJRのやることなすこと全てに批判が集中するのも無理がないとはいえます。しかし私も大企業に勤めたことがある身ですので、少しは大企業に勤める社員の気持ちも理解できないことはありません。批判をいただくことを承知で書かせていただければ、まず乗り合わせた乗務員が救助活動をしないで出社した件について言えば、その乗務員は一社員としてはなんら批判を受けるべき行動ではなかったと私は考えています。

 確かに凄い事故に彼らは遭遇してしまいました。しかし末端の社員にとっては上司の指示は絶対です。ましてや今回のような大惨事であればそれこそ危機管理マニュアルに従って部下は上司の適切な指示に従って動くことは当然です。報道によればその乗務員たちはきちんと上司に事故の状況を報告していますし、もしかするとあの大惨事に巻き込まれた状況であっても、彼らが考えていたことは他の社員たち、あるいは自分が乗務するであろう乗客に迷惑をかけないためにも何とかして自分の職場にたどり着こうとしたことだったのかもしれません。それは阪神大震災を経験している身とすれば、確かに周りの人たちを助ける人たちもいれば、一方職場に向かおうとした人たちがいてもそれぞれの人の立場によればどちらも意味のある行動だったのではないかと思うのです。

 ただこの場合に敢えて問題点を指摘するとすれば、それは現場救助を指示せず出勤を指示した上司の判断にあるのではないかと思います。しかしながらなんといってもJRは他の民間企業とは違って公益性が著しく高いサービスを提供している企業ですので、一般製造業や小売業などとは危機状況下における判断は当然異なっても仕方ないのではないかと思うのです。そういう意味で言えば、確かに今回乗り合わせていた乗務員たちについて批判はたくさんあるのですが、「まあそうイジメてやりなさんな」という気持ちが私個人は強いです。というのも私もそのような状況下で救助活動できたかどうか自信がありませんから、他人のことはとやかく言えません。

 ボーリング大会についていえば、本当に「そこまでいじめなくてもいいじゃない」という気持ちが強いです。直接の担当でない線区で事故が発生していたとしても、別に非番の人たちが行かなくてもいいじゃないですか。そりゃあ同じ会社の組織として救助活動に急行しよう、という大号令が上司からかけられたのであればまだしも、そうでなければ普通動かないでしょう?私はこの考えが別段特殊だとは思いませんよ、もし大きな組織に属する一員としての行動であれば。もし上司の指示もないのにJRのように大きな組織の現場の社員が勝手に個人の判断で動き始めたらむちゃくちゃになりますよ。そんなことしたら統制が取れません。

 だから結局危機管理の意識の違いだと思うのです。本当にJRは他の民間企業とは全く在り方も立場も異なる企業ですから危機管理に対する考え方は普通と違ってよいと思うのです。ですから末端の社員の危機における行動のとり方も少しくらい一般的な判断と異なっていてもよいと思います。ただ問題なのは、先ほども書きましたがこれだけの大組織は基本的に全て上司の判断で動かないと統制が取れませんので、あの状況下での危機判断としてあのときの上司の指示は正しかったのか、という一点です。それは列車運行全般を見渡して、そして公益に携わる企業として、さらには事後に対応を批判されないためにもどういう行動をとるべきだったのか、という点から見て最善の判断がなされたのかどうかということは今後のJRのためにも十分検証され今後の危機管理に生かしてもらいたいと思います。

 それにしてもこれらの事件でのマスコミの批判の表現が凄いですね。どこかのチャンネルなどでは解説者が「人間失格」とまで言っているものまでありました。しかしそういうマスコミ自身ははこういった災害があったときなどは絶対に人助けをしない連中であるということを皆さんご存知ですか。それは阪神大震災のときによくわかりましたが、彼らは目の前で人が家につぶされていようと、助けを求めていようと、必死でみんなが埋もれている人を助けようとしていても、絶対に手助けはしませんよ。絶対に。どれほど悲しそうにテレビキャスターが「こんな大変な出来事が起きてしまって・・・」と絶句していたとしても、そのキャスターが人助けをするのかといえばそんことは絶対にありません。なぜなら彼ら自身は「その悲惨な状況」を「人々に伝える」ことこそが唯一無比の仕事と信じ込んでいるからです。だから人助けなどしてはいけないのです。助けを求めている人たちや苦しんでいる人たちがどれほど「苦しんで」「不幸であるか」を一生懸命「写して」「世間に知らせる」ことだけが仕事なのです、そうやってお金をもらっている連中なのです。もっと言えば他人の不幸を飯の種にしている連中なのです。幸せな出来事などいくらおきたって彼らには面白くもなんともないのです。連中は事故や事件がおきてもだれも不幸にならなければ面白くもなんともないと思っているでしょう。だから福岡の地震などほとんど全国ニュースにならないのです。

 しかし今回のJRの事故のように不幸な方々が多数発生してしまった事件は、もうそれこそ我先に「より不幸な出来事」、「より腹立たしい出来事」を探して人前にさらして金を取ることに必死になっています。それでも彼らがその被害者たちを慰めたり、助けたり、心の支えになることは絶対にありません。なぜならそれは彼らの仕事ではないからです。そんなことをする暇があったら「報道の自由」と「国民の知る権利」という大義名分を振りかざして、視聴率の取れるより不幸な「絵」を根掘り葉掘り探し回るほうがよっぽど金になると思っているからです。大体あの大惨事のまさにその現場で、苦しんでいる人たちや一生懸命救助している人たちを目の前にしてただカメラを彼らに向けることしかしないという無神経さ、そういう取材場面を想像すれば誰でもマスコミの行為に対し怒りを感じるはずです。

 でもなぜ事故現場で皆がカメラだけを写しているマスコミ連中に怒りを感じているのにそれをテレビで見ることがないのでしょうか?それは簡単なことです、マスコミは自分たちに都合がいい場面だけを編集して放送しているからです。だから自分たちに対して「何でお前らはこんなに困っている人たちを目の前にしながら助けもしないでカメラばっかり写してるんだ!何考えてんだお前らは!」という現場で当然起こりうる怒りや抗議の場面は一切人目にさらされることがないだけなのです。そしてテレビを通じて編集されたそのシーンを見ると、まるでマスコミが命がけで社会的使命を果たしているかのように編集された都合のよい場面だけが放送されているのです。私がもしその現場にいて救助をしている人だったり、あるいは被害者の親族だったりしたら、とてもマスコミのカメラやマイクに話しかける気になれません。むしろ「お前ら、邪魔だ!とっとと消えろ!俺らのことはほっといてくれ!」と罵声を浴びせているはずです。それが実際の当事者の偽らざる気持ちなのではないでしょうか。

 ですからそういう意味で言えば、今回のJRの社員の行動をマスコミ関係者などに批判してもらいたくはないです。今回の脱線事故で手助けをした方々から批判が出るのであれば致し方ないかもしれませんが、少なくとも面白おかしく報道して、それで飯を食ってる連中に彼らを批判できる義理など毛頭ないと私は憤りすら感じています。

弱い楽天!

2005 - 05/09 [Mon] - 10:49

 楽天弱いですねぇ。ほとんど記録的な負け方ですね。勝率はほとんど5回戦って1回勝つくらいですものね。もしかするとさらに勝率は下がりそうなペースですもんね。確かにリーグ開始前から弱い弱いとは言われていましたが、まさかここまで弱いとは想像できませんでした。なんといっても旧近鉄と旧オリックスの選手のうちましなほうから採っていって寄せ集めたオリックスのほうも5位なのですから楽天の現状は当然といえば当然かもしれませんが。

 でもね、それでもわれわれ素人から見ればプロ野球の選手って凄いんですよ。だってプロの一軍で活躍している選手が身内や仲のいい友達にいる人なんてほとんどいないでしょう?中学校や高校野球で活躍したってまずプロには行けないんですよ。甲子園に出場した、といえばほとんどの場合「野球では相当凄い人」という位置づけになりますが、その程度の実力はプロではまったく通用しないですからね。甲子園に出たチームからでもプロに入る人なんて年に一人もいればいいほうなんですからねぇ。それほどプロ野球に入ること自体凄いことなんです。

 ですからいくら評価の低い選手ばかり集めたからといっても、さすがにプロ野球の一軍選手たちなのだからそれほどむちゃくちゃな成績にはならないのではないかと私は思っていたのです。ところがふたを開けてみると想像以上の負けっぷり。それで私もわかりました。会社とかでも一緒ですがどれほど難しい入社試験をパスした社員や、あるいは超難関な国家試験をパスした医師、弁護士などでもそうなんですが、素質としては素晴らしいものを持っていてもそれを実際の仕事に生かしているかどうかっていうのは全く別の話なんですよね。結局そこから先に差をつけるのは個々が持っている意識の問題なんですよね。だめな社員はどこの会社にでもいるし、だめな医者や弁護士も掃いて捨てるほど存在します。

 楽天の選手について言えば、確かにプロ野球選手の中では一軍に残れるだけの素質と才能は持っているんですよね。でもそのプロ野球一軍選手の中でも一流の選手達なのか、といえば、多分一流ではないんだと思うんですよね。きっとそれは技術面はもちろんのこと、「やる気」だったり「勝気」だったり、あるいは「根性」の面だったりするんでしょうね。最近の若い方々にはこういう「気持ち」の持つ力を軽んじている人も多いのかもしれませんが、どんな世界でも成功するか失敗するかの分かれ目はこの「気持ち」の強さが決めるんですよね。特にスポーツにおいてはほとんど「気持ち」が勝敗を支配しているといっても過言ではないといえます。特に野球のようなチームスポーツにおいては一流選手が一人いるくらいで勝てるスポーツではありませんから、チーム全体の雰囲気だとかメンタル面のまとまりって結構大切なんですよね。だからチームの中にやる気のない態度や発言をする選手がいると目に見えてチーム全体が悪い方向に行ってしまうんですよね。

 そういう意味で言うと楽天にはあれだけ凄い素質と才能を持ったプロ野球選手の中でもとりわけ素質面でワンランク落ちる選手ややる気のない選手、あるいは気持ちの弱い選手が集まってしまっているんでしょうね。悪い言い方をすれば楽天というチームは他のチームで使えない選手の寄せ集めだということです。だからぜんぜん勝てないのでしょう。 プロ野球の選手だったら誰でも超一流に野球が上手いはずだと思っていた私の素人考えを楽天は見事に打ち砕いてくれました。一流の中の「超一流」だけがプロ野球の世界では活躍しているのだ、という事実がよく分かりました。そういう意味で言うとプロ野球で一流選手として活躍している選手のその素質とメンタル面の強さというのはわれわれが想像しているより遥かに素晴らしいものなのでしょうね。松井や野茂やイチローまで行けば・・もはや神の領域かもしれません。

パソコン製作!

2005 - 05/04 [Wed] - 12:04

 私の家には元々3台のパソコンがありました。一つはサーバー用、一つはノート、そしてもう一つはメインで使っているものです。ところがこのサーバー機とメインパソコンが数ヶ月前にほぼ同時に死んでしまい、サーバー機は完璧に死亡、メインパソコンは復活したものの、性能的にすでに一杯一杯だったのでサーバー機に置き換えて使っていました。それにしても同時に別々のパソコンが死ぬなんて、まったく珍しいことがあったものです。

 それ以降ずっとメインのパソコンを買うか作るかしないと思っていたのですがやっと本日(正確には昨日ですか)新しいパソコンを作りました。これはひょんなきっかけなのですが、いつも絶妙なタイミングで電話をかけてくる私の友人がいて、彼が数日前に電話をかけてきたわけです。話し出すなりいきなり「今メモリーが安いから買っておくといいよ。」。私、「そりゃあいいんだけど、肝心のパソコンをまず作らないとメモリー買っても仕方ないよ。」続けて私、「ああそういえばうちのパソコンが壊れた話、してなかったかなぁ」「じゃあ前もらってたマザーボードがあるからあれを使って作ろうか。ここんところずっと買おうか作ろうか悩んでいたところなのよ。ちょうどいいタイミングで電話をもらったから、じゃあ都合のいい日にパーツを買いに行こうか。」

 ・・というようなやり取りで昨日パーツを買いに行ってきたという次第です。私自身は正直言ってパーツの相性だとか、どの型番の部品を使えば動くか、などということがほとんどわからないのでマザーボードを彼からもらっていても使いようがなかったわけなのです。とはいえうちにあるパソコンはノート以外はすべて自作機。これで自作機は4台目になりますがいつも彼のアドバイスのもとで作ってきていました。まあそうやってやっとのことで重い腰を上げることができてやっと新しいパソコンを手に入れることになりました。

 とはいえ昼からパーツ購入、組み立てソフト導入をやっていますが今(深夜3時)もまだ作業中です。もちろんまだまだしないといけないことがあるのですが、まあ今日はこんなところでやめとこうかなと思っています。といっても組み立て途中にいろいろあったのですよ、実は。彼からもらったボードが入っていた箱にボードの型番が書いてありましたので、メーカーのページを参照しながらそのボードに合うCPUを探しました。その結果値段も手ごろなセレロンD2.8Mを1万円弱で買ったのはよかったのですが、家で組み立てていると重大な問題を発見。なんと箱と中に入っていたボードはまったくの別物。「おいおい、俺素人なんだから中身まで確認しないよぉー」と買ったばかりの石を既にボードに取り付けた後、いまさら返品もできないしどうしたものかと思案に暮れました。

 「まあ電圧では壊れないからとりあえず動作テストしてみようか」、と彼。「石は壊れない?」「大丈夫。」「ほんとに?」と私。ところが電源を入れてもうんともすんとも言わない。「しょうがない、この石に合うボードを買いに行くか。」ということで結局もう一度街に出てマザーボードまで購入する羽目になりました(なんのこっちゃ)。まあお店に行きますと5千円弱で結構いいボードを安売りしていたので、結局は災い転じて何とやら、少し出費はかさみましたが結局最初のボードを使って作るよりもよさそうなパソコンに仕上がりました。

 そんなこんなでいろいろあって結局こんな時間まで作業ということになってしまいました。でもやっと念願の新しいパソコンを手に入れることができてDVDもやっとスムーズに動くようになったし、ストレスなく使える作業用パソコンができたのでこれから仕事にプライベートにガンガン使っていこうかと思っています。ま、ちょっと大変でしたが何とかうまくいきそうでほっとしています。以上。

JRの脱線事故(2)

2005 - 05/03 [Tue] - 01:11

 JR西日本が引き起こした脱線事故についてJR西日本の対応について書いていきたいと思います。既に多くの人が様々なメディアに同様なことを発言されているので繰り返しになるとは思うのですがもう一度ここで指摘したいと思います。

 とにかく今回JR西日本が事故の直後に取った対応は、企業の危機管理、あるいは事故対応としては最悪の対応だったと言わざるを得ません。とにかく事故当初JR西日本側から発せられる情報が著しく企業の保身のみを考慮したものであったことがその後の全ての対応を後手に回し、さらには悪印象を与えるものにしてしまったと言わざるを得ません。

 まず我々が最初に知った情報は「快速電車が踏切付近の自動車と接触して脱線した」という情報でした。当然その情報を聞いた人々は「ああ、また訳の分からない奴が踏切で車を立ち往生させて電車を脱線させたのか。こりゃあ補償が大変だぞ。」という印象を持ったことでしょう。ここでは当然JR西日本に責任があるなどこれっぽっちも思いません。むしろJRは被害者であるかのようです。

 その次には、状況からどうやらその電車は車に当たって脱線したのではなく、車に当たったのは脱線した後だったようだということで、じゃあ何が原因だったんだろうと見てみると、どうも電車のスピードが速すぎたことが原因だったのではないかという証言が次々と被害者や目撃者から寄せられ始めました。そうなるとJR西日本としては少しでも自分たちに有利な情報を発信しようと試み始めます。曰く「専門家の意見を参考にすると133キロのスピードでないと脱線しない」、「置き石があった事実が推測される痕が見つかった」・・・。さすがにここまで来るともう必死としかいいようがありません。もうとにかく少しでも後々に予想される補償問題を有利に進めるためなのでしょうが、自分たちに少しでも有利になる情報を発信することだけに腐心していることが手に取るように分かります。私はこの情報発信が企業の危機管理として正しい対応だったとは思いませんでしたが、きっとJR西日本の社内では「最善の」危機対応策だったのでしょう。

 まずもって「133キロ云々」についていえば、そんなこと物理の計算問題じゃあるまいに、どう考えたって意味のない数字にしか思えないのではないでしょうか。なぜ「133キロ」なのでしょう?別に「約130キロ」でも「130キロ付近」でもどっちでもいいではないですか。この細かい数字にこだわるあたりにJRが少しでも自己の責任を軽くしたいという意図を感じました。実際問題として最高速度を70キロと定めているカーブをほぼ倍の133キロで通過してひっくり返らないなど、どんな素人でもあり得ないと考えるのが普通でしょう。ましてや脱線した電車は最高速度が120キロしか出ないのにどうしてそんな無意味な133という数字を声高に発表する必要があったのでしょうか。

 なぜ会社側が理論上の脱線可能速度などを発表する必要があったのでしょうか?発表していた段階で既に乗客から「急ブレーキがかかってから脱線した」という証言が寄せられていたにもかかわらずです。車に乗っている人であれば比較的容易に想像できると思うのですが、例え133キロでないと脱線をしないカーブであったとしても、その手前でブレーキをかけて車体の重量バランスが動いている状態であればそこまでの速度でなくても車体がひっくり返ることは容易に想像がつく状況だったのではないでしょうか。とにかくあのタイミングで理論上の脱線可能速度などを発表することは無意味であるばかりか、JRの誠意のなさを世間に知らしめるだけとなってしまいました。

 そして「置き石説」についてですが、これはあのJRを発表を聞いたほとんどの人が、その石の痕はどう考えても脱線したときに周りに敷き詰めてある石を跳ね上げてそれを後で通過した車両が踏みつぶした痕だと考えたのではないでしょうか。もちろんこの説は最終的に完全に否定され、JR側が「事故原因として発表する意図はなかった」と釈明する結果となりました。

 そして最後にひた隠しにし続けたのが事故直前の速度の発表です。これは実は神戸新聞では他のメディアよりほぼ丸一日早く正確に108キロと公表されていました。なぜ他のメディアでの公表が遅れたのか謎ですが、当初からJR側が「車体に搭載されているデータと調べれば脱線時の速度は分かる」と発表していたにもかかわらずあれほど時差があったことには疑問を感じます。

 とにかく今回のJR西日本のマスコミ対応は本当に企業の危機管理としては最悪です。確かに今後の裁判、補償問題の面からすれば慎重に対応したかったのでしょうが、ここは訴訟大国アメリカではありません。まだ少しでも人情が残っている日本です。そうであればどう初期対応すべきだったか、別の答えがあったのではないでしょうか。ここ日本においてはあれだけの事故を起こしてしまえば、原因の非のあるなしにかかわらずまずJR西日本は全面的に謝罪し、無条件で全ての被害者に対して最大限の補償をすることだけを発表しておくべきだったのではないでしょうか。もし仮にその後JRの責任を軽くするような原因、例えば置き石だとか車体の故障などが見つかったのであればそのときにそのように正確な事実だけを発表すれば良かったのではないでしょうか。アメリカなどの諸外国ではともかく、その方が少なくともこの日本では余程JR西日本の印象を助けたのではないでしょうか。

 事故は起こさないに越したことがありませんが、しかし起きてしまった事故は仕方ありません。その起きてしまった事故に対してどれほど心証の良い対応を企業として行うことができるか、それが企業の危機管理対策として問われたのが今回の事件の一面ではなかったでしょうか。

 ところでこれから先は冗談ですからまともに取り合わないでいただきたいのですが、この事故での犠牲者の棺の前で罵声を浴びているJR西日本の社長が映像で映し出されていましたが、彼が遺族と犠牲者にわびる最善の方法は路線に自動列車停止装置を早急に取り付けることでも、辞職することでもありません。遺族の方々の憤りは絶対に「犠牲者を生き返らせてくれ」という言葉になって表現されます。なぜならもし私が同じ立場であれば同じことを言うからです。それ以外JRの社長に言う言葉はありません。お金などもらっても仕方ないのです。とにかく事故の前の状況に戻して欲しいだけなのです。とても簡単な要求ですが、悲しいかな実現が不可能な望みなのです。

 その望みを持ってお怒りのご遺族に対するお詫びは、107人の人命を奪った事故を起こした企業の責任者としてのお詫びの方法はこの日本であれば一つしか在りません。外国ではどうか分かりませんが、日本でこれ程大きな事件を起こした責任者が許しを請うお詫びの方法は一つです。それを行ってお詫びとさせていただきたい、許していただけないのは百も承知であるが、私としてはこうすることで皆様に対するお詫びの気持ちをお伝えしたい、と書けば少しはご遺族のお心を鎮めることが可能かもしれません。もちろんこのような伝統的で純日本的な責任の取り方は法的に正当なものではありませんし、何の経済的な補償にもなりません。ただ先ほどのお話ではありませんが日本人としての心で少しは通じ合うものがあるのかもしれませんし、日本人には日本人としての責任の取り方があるのではないかということです。もちろんこれは冗談です。ただそれ程大きな問題であり、昔であればそういう責任の取り方しかできないほど大変な犠牲者を伴ってしまったということです。そういう意識をJR西日本の社長には是非持っていただいて事の対処にあたっていただきたいと願っています。

対中、対韓、対北鮮政策について

2005 - 05/02 [Mon] - 11:45

 最近の中国との問題に関連して、いつも気になることは中国、韓国等が「日本は過去の歴史問題を直視せず、謝罪も賠償も行っていない」と繰り返し主張していることです。この意見はこれらの国だけのみならず、時としてヨーロッパやアメリカのメディアなどでも述べられることがあります。

 しかしこれは本当に事実なのでしょうか。この点については実のところ我々日本人ですらよくわかっていないのが現状なのではないでしょうか。中国の主張などと異なって、我々の意識のなかでは日本がアジアの各国に対して先の大戦で蛮行を行っていたことは様々な情報を通じて承知しているつもりです。そういう面から言えば我々は教育としては正しい歴史認識を持っていると言える思いますし、しかも何度となく皇族、政治家の発言を通じて謝罪の言葉もこれらの国々に対して発せられているという事実を知っています。

 結局問題となっているのは、日本が国家として謝罪及び賠償を行っていないのか、という国際間における事実認識の違いなのではないでしょうか。我々日本人の一般的な感覚としては政治家を初めとして今までも何度となく直接的、間接的に中国をはじめとする各国に対して謝罪の言葉は伝えられていると考えていますし、さらに補償問題に関して言えば、国連に対するトップクラスの金銭の拠出、及び各国に対する巨額のODAを通じて十分すぎるほどの償いに相当する行動を行っているのではないかと考えています。それにもかかわらずこのたびのように中国や韓国で謝罪や賠償を求める抗議運動などが起きることについては、多くの日本人は理不尽な気持ちになるのではないでしょうか。

 もし日本政府としても国際的見地に立って謝罪と補償が行われていると考えているのであれば外交を通じて世界の世論を形成することに尽力しなければならないのではないでしょうか。とくにアメリカは軍事同盟国でもあり、このたびのイラク問題でも全面的な支援を行った経緯もあるにもかかわらず、中国、北朝鮮をはじめとする日本の対アジア問題や国連常任理事国入りの問題に関しては全くと言っていいほど日本の立場を尊重することがありません。

 いくら第二次大戦時に日本がアメリカの敵国だったから当時の日本の行為について強硬な立場を崩すことができないという立場があるにしても、現在は安保などを通じて共通の利益と保障のために行動していく形を取っているわけですから、少なくともアメリカに関しては外交、ロビー活動などを通じて同盟国として日本と同じ意見を支持してくれるよう強力に働きかけることが大切なのではないでしょうか。この問題についてアメリカ側の政府、議会、マスコミから日本批判のようなコメントが発せられるのを見ていると、「アメリカはどっちの味方なんだ!」という怒りを禁じ得ません。

 そして欧米諸国に日本の今までの行動を正確に伝え、理解させ、それを様々なメディア、政府関係者、経済人のコメントを通じることで全世界的な共通認識として醸成していく外交努力を行うべきではないでしょうか。そうすることで中国、韓国、北朝鮮のようにいつまでも同じ主張を繰り返すことで都合良く日本にたかってくる国家に対して外堀を上手に埋め、彼らの不条理な主張を押さえ込んでいけるほどしたたかな外交をして欲しいと切に希望しています。

差別はなくならない

2005 - 05/02 [Mon] - 05:07

 差別をしてはいけない。誰もが同和教育の名のもと部落差別、人種差別を行ってはならず、人類は全て平等であるという教育を行われてきたと思います。もちろんそれは尊重されるべきでいわれなき差別は行ってはなりません。しかしでは現在社会に差別は存在しないのでしょうか。私はそうは思いません。差別は歴然として残っています。ではなぜ差別は残っているのでしょうか。実は差別は決して世の中からなくなることはないのです。その理由を書いていきましょう。

 結論からいえば、人間に「好き・嫌い」の感情がある限り差別は絶対になくなりません。なぜなら友だちを選ぶときも、恋人を選ぶときも誰でも自分が好きな人と仲良くなりたいと思い、そして自分が嫌いな人とは一緒にいたくないと思うのは避けられない感情だと思います。どれほど神様のような人であったとしても自分が嫌いなタイプの人と結婚して一緒に生活しようとは考えないでしょう。また他人より豊かで幸せな生活を送りたいという人間の本質的な欲求がある限り、必ず他人と自己の優劣を比べてしまうためどうしても優れたものと劣ったものを見分ける行為を止めることはできないでしょう。

 そこで差別がなくならない理由をもう少し掘り下げてみましょう。大体現在残っている社会差別は住所や職業による差別がほとんどであろうと考えられます。まず住所による差別ですが、これはもし自分ができる限り犯罪に巻き込まれないで生活していこうと考えるのであれば、その可能性の高い地域を探してそこに住もうと考えるのは自然な流れではないでしょうか。例えばありとあらゆる場所に前科者や有名なトラブルメーカーがいるのが分かっているのに、そのような地域に好んで住み着く人はいないでしょう。

 私も昔から同和教育を受けてきた世代ですから人種、思想、信条等で人を差別してはならないということは知識として知っています。またできる限りそのように行動しようと努力してきたつもりです。しかしながら悲しいかな年齢と経験を重ねてきた今では差別が存在していることもやむなし、という考えになってきています。

 その一つには例えば住所に関して言えば、大人が夫婦で暮らす限りにおいては余程生活環境が劣悪な地域でない限り自分たちが注意して暮らしておけばどのような地域であってもトラブルから身を守ることは可能だと思うのです。 ところが子供が産まれてくると、親としては子供が最も大切な存在になりますから子供を守ろうとします。子供は弱く何も知りませんから、犯罪にすぐに巻き込まれてしまいます。それはこの間の奈良の幼児誘拐殺人事件などを例に引き合いに出すまでもなく容易に想像できると思います。そうなると勢い慎重な親たちは自分たちの子供を犯罪や不慮の事故から守るためにより良い住環境を選ぼうとします。その際にどういう条件で住む地域を選ぶのかといえば、それは先ほどのようになるべくトラブルが起きそうにない場所に住む、すなわち昔から良くないと言われている地域を避けようとするのは仕方がないことなのです。なぜなら実際にそういう地域に足を踏み入れたりその地域の方々と交流を持つ機会があれば多くの方にも理解ができると思うのです。誠に申し訳ないとは思うのですが、やはりいわゆる被差別地域は少し雰囲気が違うのです。残念ながらそこで子供を平穏に育てていく自信は揺らぐのです。

 ではなぜ逆になぜ差別を受けている人たちはそのような地域から出ていかないのでしょうか。結局私の考えでは被差別層の中にも自分たちの代で何とかしようと考えている方々は子供の教育に熱心で医者、弁護士などの人種、出所に差別がなく、かつ社会的評価も高い職業に就かせようとしています。そして地域的な問題があるのであれば、引越をすることが容易な現代においてはいくらでも好きな地域で暮らすことが可能です。そうして数十年も経てば自らの出所に起因する差別は比較的容易に消し去ることが可能です。もちろん戸籍を調べればいくらでも身分調査は可能です。しかしそれこそそのような先祖の住所による差別など今現在の自分たちの生活と努力でもって吹き飛ばしてしまえばよいのです。

 しかしそれ程までに自らの被差別層としての経歴を比較的容易に消すことができるにもかかわらず、相変わらずその地域に留まっている方々が多いことも事実です。それはなぜなのかといえば、やはり自分たちが被差別層であるということを逆に誇示して利得を得ようとする考えを持っている人たちが多いこと、あるいは全くやる気を失っている人たちがその地域には留まっているケースが多いからなのではないでしょうか。そう考えるとやはり自分たちや子供をトラブルから守りたいと考えている人たちはそういう地域に住みたくないと思うのは当然で、結局住所による差別はいつまで経ってもなくならないということになります。

 では人種や職業についてはどうなのか、といえばやはり理由は同じなのです。自分が被差別層だという認識がある人たちの中にも、意欲的な方々についてはやはり自分たちの代から改善していこうという意欲が必ず見られます。そういう人たちは必ず被差別層から脱出することが可能です。しかしそうでない同一人種が集まって住んでいる地域、あるいはそういう人たちだけが請け負っている職業はどうしても差別の対象になってしまうのです。

 そもそもなぜ人間が努力をするのか、という本質は他人より良い生活、地位を得るために努力をするのです。つまり他人より上に行くことを目標として努力をするのです。つまりもとより人間は平等ではなく、むしろ少しでも他人より良い生活を手に入れることを夢見て一生懸命努力を行っているのです。逆に言えば共産社会のように誰もが全く平等なのであれば努力をする必要も、能力が優れている必要もありません。しかしながら旧ソ連や現在の中国ですら、人々は他人より幸せになりたいという欲求は持っており、それが強い人たちは経済的に優位に立っています。そういう意味からいえば、人間の本質として他人より幸せに生きたいという願いは誰でも持っている、言い換えれば他人に勝ちたいと誰もが願っているということなのです。

 そこに差別が生まれるのははっきり言って社会の必然悪とも言えます。これをなくすことは人間の感情を消し去ることから始まりますので絶対に実現は不可能です。どれほど教育が進もうと、処罰が進もうと人間社会から差別をなくすことは絶対に不可能です。誰もが貧乏よりは経済的に余裕がある方がいいと思い、バカよりは利口になりたいと思っている限り必ず差別が消えることはありません。

 結局差別を根本的になくすことは不可能なわけですが、一つ言えることは今の時代はまだ被差別層にも入れ替えのチャンスはあるということです。それはどうやって手に入れるかといえば歯を食いしばって努力するしかないということです。諦めているのであれば残念ながらいつまでも差別され続けられるしかありません。いつまでも自分たちの不幸を呪うしかありません。しかしそれは被差別層ではない人たちの負け組の人たちにも言えることなのです。

 結局自分たちの生活を改善し差別を受けないようにするためには努力を重ねるしかないということなのではないでしょうか。

JRの脱線事故(1)

2005 - 05/02 [Mon] - 01:42

 JR福知山線の尼崎駅近くで大変な事故が起きてしまいました。死者107人にものぼる大惨事で、報道等を通じて皆さんもよくご承知のことだろうと思います。

 私も免許更新などであの路線にまれに乗ることがありますので、他人事ではありません。あの事故でお亡くなりになられた方々とその御遺族の方々には心よりお悔やみを申し上げたいと存じます。私もそうですが阪神大震災を乗り越えて10年経ったのに、最も安全な移動手段だと思われていた電車に乗っていて事故に遭うとは夢にも思っていなかったでしょう。

 原因は今のところ列車のスピードの出しすぎが有力なようです。運転士の方もお亡くなりになってしまいましたが、私の推測では彼も何度も処分を受け、しかも直前の伊丹駅でオーバーランしてしまって完全に頭がパニクってしまっていたのでしょうね。報道を見ていますと、阪急電車との競争による過密ダイヤとその遵守からくる安全性の確保の問題が取りざたされているように感じます。

 確かにJR西日本も会社ですから営利を追求するのは当然でしょう。しかも同じところを阪急電車と言う強力なライバルが走っていれば阪急にないサービスを打ち出さなければとても太刀打ちできません。阪急は西宮経由でなければ基本的に宝塚からも乗り換えなしで大阪に行くことができます。この利便性に対抗するためには「スピード、料金、本数」を前面に打ち出すしか方法がなかったのでしょう。結果的に毎年どんどん過密化していくダイヤの複雑化がこの事故の遠因となったということは指摘できるでしょう。それをある意味会社として安全性にまして推進していたように見えたからこそ会社も大きな批判を受けているのでしょう。

 でも一つだけ気に留めておいて欲しいことがあるのです。確かにJRの超人的な過密ダイヤが運転士に過度のプレッシャーを与え、速度超過を引き起こし今回の大惨事を引き起こしたのでしょう。しかし我々乗客だってそのJR西日本が提供していたサービスを喜んで利用していたのです。そうであるが故、よりよいサービスをJRに要求し、JRも毎年のダイヤ改正でそれに応えてきたのです。「過密ダイヤが原因だ、安全よりもダイヤを優先したJRの姿勢が問題だ。」と事故原因を指摘するのは簡単でしょう。

 しかし現実問題として電車がダイヤどおりに到着しないでも皆さんは「ああ、JRはダイヤよりも安全を優先しているからしょうがないね。」と考えることができるでしょうか。実際には乗客の多くはダイヤが乱れるとすぐに文句を言うのではないでしょうか。駅員に詰め寄って、「時刻どおりに電車が到着しないから予定に遅れてしまう。どうして責任を取ってくれるんだ!」とすぐにダイヤを守らないJRのせいにしてしまう方も多いのではないでしょうか。そういう面から見ればJRがより過密なダイヤを作り上げたのは結局利用者の要求に一生懸命応えようとしているからに他ならない側面もあるのです。

 確かにJR西日本が会社としてこのような大惨事を引き起こしたわけですから、その非は100%JR西日本にあるということは紛れもない事実です。これから交渉が進められるであろうさまざまな補償問題については誠心誠意を持って被害者・ご遺族、そしてマンションの住民に尽くして欲しいと願っています。しかしながら、本質的な問題としては我々利用者の側にも鉄道各社がダイヤが守れなかったときにそれを許すことができないため、間接的に会社に対して過酷なサービス提供を求めていることも指摘できるわけです。

 携帯電話やパソコン、インターネットの普及で世の中はますますスピードアップしています。それによりあらゆる事業者はより即時的なサービスの提供を求められています。しかしどこまで世の中と人間はスピードアップすれば気が済むのでしょうか。電車や飛行機が何かの理由で遅れたり止まったりしても「まあ、しょうがないか」と考え、許してあげる気持ちのゆとりがあれば、もしかすると今回の大惨事は起きなかったのかもしれません。

 人間は機械ではないのでどれほど努力をしてもどうしてもミスを起こすことはあります。業務をスピードアップするにも限界があります。それは自分のことを振り返ってみればよくわかることだと思います。にもかかわらず他人のミスは許さず、ましてや事業者に対しては分・秒単位までの正確なサービスの提供を求めるのは少し酷な状況なのかもしれません。このままでは世の中の人間関係はどんどんギスギスしていくような気がして仕方ありません。

 そういう意味で今回の事故は我々現代に生きる人たちに対して「もう少しゆっくり生きたらどうだ?」という一つの戒めなのかもしれません。自分自身ももう少しゆっくりと行動し、他人に対してもそうであることを許してあげる、そういう心のゆとり、優しさが世の中から失われてきている反動なのかもしれません。

 それにしては大きすぎる犠牲でした。

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当ブログにお越しいただきありがとうございます、税理士のもりりです。のんびりと、時々辛辣に日々感じたいろいろなことを自由に書いていきたいと思います。

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